おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

掉挙(じょうこ)かもしれない。

年末の雰囲気のせいか、いや、自分の能力の無さのせいか、心に落ち着きがないと感じることがあります。

 

能力を奪う障害に五蓋(ごがい)という言葉があります。

五蓋 - Wikipedia

 

「愛欲、瞋恚、昏沈睡眠、掉挙・後悔、疑」が五蓋になります。

 

下記に「能力を奪う五蓋と智慧を完成させる七覚支」という本が無料で読めます。

心の落ち着きの無さについて考えてみました。

http://www.j-theravada.net/dhamma/saNgaavarasutta_web.pdf

 

心が落ち着かない状態は掉挙になります。

本では

「心が浮ついて焦っている状態、あがっている状態、集中力がなく混乱し興奮している状態でのことです。掉挙があると、何をやってもうまくいきません。仏教では、人が悪いことをするとき、その瞬間の心は混乱状態にあるといいます。理性がなく感情だけで動いていますから、自分が何をやっているのか全くわかりませんし、当然、善悪判断もできません。この状態のときに考えること、話すこと、行動することはなんでも悪い行為で罪なのです」

 

かなりやばいです、能力を奪います。

掉挙は微妙な心なので、悟らないかぎり取り除くことができないとのことです。

最後までつきまとう心ですね。

 

貪と瞋は、わかりやすいですが、それにしても掉挙は微妙な感じでタチが悪い、気がします。

 

でも、たまに仕事をしていると焦っている自分に気づくことがあります、そのときの仕事っていまひとつ場合がありますね。

 

焦っている自分に気づいたらどうすればいいか?

 

本では掉挙の対策が書いてあります。

昏沈睡眠と同じなのですね。

 

場所を変えること

 

姿勢を変えること

 

課題を変えること

 

「面白い」と思うとき

 

詳しくは本をお読み下さい。

http://www.j-theravada.net/dhamma/saNgaavarasutta_web.pdf

 

 

焦っている自分から離れるようにする工夫ですね、これが必要です。

自分なりに考えると、焦っているときほど、ゆっくりしゃべってみる、ゆっくり書いてみる、ゆっくりパソコンを打ってみる、5分と決めて周りの片付けを始める、無理やり面白いと感じてみるとか。

 

対策ができそうな気がしますが、長年の頑固な心の癖なので、しぶとく気づきながらやっていきます。

 

実践ですね。

 

今日はお食事会

年末です、巷では忘年会とかいろいろな会合とか予定があり、皆さまご多忙でしょう。

 

本日は、無料である場所を借りていただいて、皆が持参して昼食会。

 

「今年はいろいろありました、おつかれさまでした」という感じで始まり、スリランカの仏教やお坊様について、日本の仏教やお坊様について、他にもあれやこれやおしゃべりです。

 

お酒の入る忘年会とか、日本の法事とは違い、お酒はいらないお食事会です。

 

皆シラフですので、伝えたいことはちゃんと伝わるし、聞きたいことはちゃんと聞けるし、それも正確におしゃべりできます。

 

質問したり、それに答えたり、約束したり、約束されたり。

シラフなのでメモしなくても覚えています

 

今回は昼でしたが、別に朝でもいいのです。

ですから、お食事会は下記の会に雰囲気が似てます。

 

アサテラの会

早朝、自由に皆でお寺に集まり、お勤めのあと朝粥を食べるという会です。

特定の宗教なんか関係なく、みな楽しく集まって、行っています。

5年続いてます、すごいです。

下記アサテラのブログになります。

アサテラ

 

 

今回参加したみなさんは仏教徒の方でしたが、自由なおしゃべりを楽しむんでしたら、別に仏教徒でなくてもいいです。アサテラと同じく宗教なんて関係ないです。

 

あと、持ち寄った食べ物をお持ち帰りで分けて、3時頃終了です。

夕方のラッシュに巻き込まれることもなく、クルマを運転してスムースに帰ります。

 

帰ってから、家族との時間も持てます。

 

以前、酒飲みで、夜おそくまで痛飲してた人間なので、なんでこういった有意義なやりかたを知らなかったんだろう、おバカさんだなあ、と思っている次第です。

 

お幸せでありますように。

 

 

 

良寛さま(7) しらみの競争

相馬御風 「良寛さま」より

 

しらみの競争

 

良寛さまの着物には、よくしらみがたかりました。しかし、良寛さまは平気でした。ときどき良寛さまは、たいくつになるとは、着物にいるしらみをとって、それを何匹も何匹も紙の上に這わして、眺めたのしむのでした。

しらみは紙の上をあちこち這いまわります。足のはやいしらみもあれば、のろのろしているしらみもありました。良寛さまは何匹ものしらみに徒歩競争をさせて面白がりました。

こんな風に、さんざんしらみを遊ばせてから、良寛さまはそれをまた一匹一匹つかまえては、自分の着物につけました。のみでもしらみでも、良寛さまは一匹も殺したことがないのでした。

あるとき良寛さまは考えました。

「もしわしの着物にいるしらみやのみが、松虫や鈴虫のようにいい声で鳴く虫だったら、わしのふところの中はどんなに賑やかだろう。まるで武蔵野の原のようだろうな」

そこで良寛さまはそのことを歌につくって見ました。

 

のみしらみ音に鳴く秋の虫ならば

        わがふところは武蔵野の原

 

そして、

「なるほどこれはおもしろい考えじゃ、アハハハハ」と自分で自分の歌を面白がって、時々それをうたってはよろこんでいました。

 

 

徹底してます。

ここまでくると、生き物を害するなんて頭に浮かばないのでしょう。

 

生きてるものはなんでもかわいいし、楽しんでます。

 

新聞を読みますと、生命を言葉で害したり、暴力で害したり、あげくの果ては殺したり。うんざりするくらいそういった記事があります。

人間は悪いことを好みますので、すぐにそれに塗れます。

でも塗れたら、困るのは、害された生命ではなくて、最後は全部やった自分が受け取ることになります、これって怖いですね。

 

良寛さまは、悪いことを好みません、長年の修行で培ったものなのか、元々の性格なのかはわかりませんが、ここまで徹底していると言うことないです。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

 

 

良寛さま(6) なぐられた良寛さま

良寛さま」相馬御風著より

 

なぐられた良寛さま

 

これもある月のいい晩のことでした。

ある村の知った人の家に泊めてもらっていた良寛さまは、夜ふけてから一人で散歩に出かけました。そのとき良寛さまは坊主頭が寒いので、手拭で頬かむりをしていました。

道ばたの草には一めんに露がおりていました。そして月の光をうけて、うつくしく輝いていました、草のかげでは、あちらこちらでも、虫が鳴いていました。

良寛さまは空のお月さまを眺めたり、草原の美しい露の玉を見たり、いろいろな虫のうたを聞いたりしながら、どこいうあてもなく歩いていきました。

と、いきなりうしろから、二人の男が、

「この野郎!」

と大きな声でどなって、良寛さまの襟首をひっつかんで地べたへころがしました。

そしてさんざんに良寛さまを蹴ったり、なぐったりしました。

良寛さまはなんのことかわからなかったけれども、黙って苦しさや、痛さをこらえながら、されるままにしていました。あんまり蹴ったりぶったりされたので、なんだか気が遠くなるような気さえしました。

二人の男はさんざん良寛さまをひどい目にあわせてから、

「おい、きさまだな、このあいだからちょくちょくあってこっちの畑のものを盗むのは、太い野郎だ。うむ、こら、面を見せろ、面を」こういいざま、良寛さまを引きずり起こして頬かむりの手拭をはぎ取り、二人一緒に良寛さまの顔をのぞき込みました。良寛さまはやはり黙ってされるままにしていました。

と、明るい月の光で良寛さまの顔をはっきり見た二人の男は、

「や、こりゃ、良寛さまじゃないか」

良寛さまだ!」

こうさけんだかと思うと、二人ともあんまりびっくりしたので、まるで腰が抜けたようになって、地べたに尻もちをついたまま、しばらくぼんやりしていました。

良寛さまは体のあちこちを痛い目にあいましたが、さいわいけがもしていませんでしたから、そのまま立ち上がって帰ろうとしかけました。

それを見ると、二人の男はあわてて地べたにすわりなおって、良寛さまの前に頭を下げました。そしていいました。

良寛さま、どうぞかんべんしてください。わしらはこの村の者でございますが、このごろ畑どろぼうがあって困るので、こうして毎ばん畑の番をしておるのでございます。そこへちょうどあなたが頬かむりなんかをして畑のあちらこちらを歩いておいでなされたので、ついいちずに畑どろぼうだと思い込んだために、あんなことになってしまいました、どうぞゆるしてくだされませ。それにしても、あの時あなたが一ことわしは良寛だとおっしゃってくだされば、こんなことにはなりませんだのに・・・ああ、ほんとうに悪いことをしてしまいました。どうぞかんべんなさってくだされ。良寛さま、この通りおがみます」

こういって二人の男は泣きながら手を合わせて良寛さまを拝みました。

けれども良寛さまは少しも怒ってなんかいませんでした。

少しもその人たちを悪いとは思っていませんでした。そして、「いや、わしがわるいのじゃ。夜おそく畑の中なんか歩いたりするもんじゃでのう」

良寛さまはこうやさしくいって、そのまま帰っていきました。ふたりの男は涙を流しながら、良寛さまのうしろ姿を拝んでいました。

 

日頃、悪いことをしてなくても、悪いことはされるものです。 

 

これを読むと、サーリプッタ尊者を殴って、試そうしたバラモンの話を連想します。

悟っているのかどうか試そうとしたのです、こちらのほうがタチが悪いです。

 

下記URLにあります

巻頭法話(242) 聖者をモデルにして生きる

 

ダンマパダにもあるのです

  1. Na brāhmanassa pahareyya

   Nāssa muñcetha brāhmano

   Dhî brāhmanassa hantāram

   Tato dhî yassa muñcati

389

   バラモンを打つことなかれ

   バラモンに憤り放つことなかれ

   バラモンを打つは厭( いと)わしい

   〔バラモンに〕憤り放つことはさらに厭わしい

 

  1. Na brāhmanassetadakiñci seyyo

   Yadā nisedho manaso piyehi

   Yato yato himsamano nivattati

   Tato tato sammatimeva dukkham

390

   それよりも優れたことあり

   〔バラモンに〕好意を持ち心制御すること

   〔バラモンへの〕害意を消してゆくこと

   その度に苦しみは消えてゆく

 

 

 

凡夫たる私は、「サーリプッタ尊者、良寛さまはさすがだ、百姓2人はしょうがないとしても、それにしてもなんとタチにわるいバラモンなんだ」と思ってしまいます。

 

凡夫の低劣な感想で申し訳ないです。

 

凡夫の感想に関係なく、聖者二人は進んでいきます。

 

ダンマパダでは、聖者に対して暴力を振るうより、もっとも厭わしい行為は、聖者に対して怒りを抱くこと、怒りを発散すること。

 

そして優れた行為は聖者と付き合うこと。

害意はなくなり、苦しみが減っていきます。

 

 

 

なぐられたこと、暴力よりも、みんなの心の状態を仏教は重視しています。

 

 

良寛さまはなぐられてしまいましたけど、その心の状態、なぐった人の心の状態、ここをよくみながら、読む物語ですね。

 

お幸せでありますように。

 

良寛さま(5) 良寛さまの嫌いなこと

良寛さまの嫌いなこと

 

書家の書

 

歌読の歌や詩人の詩

 

料理人の料理

 

3番目を引用します

「それからまた料理人の料理。これもわしの嫌いなものの一つじゃ。人は冷や飯に水をかけてザブザブと食べたい時もあれば、生味噌をあつい飯にかきまぜて食いたいときもある。立派な献立の料理でも、おなかのくちい時は見ることもいやじゃ。料理人の料理のようにいつも同じ型にはまった食べ物ばかり食わされたのではたまらない。食べ物のうまいまずいは時と場合によるし、人の好きずきにもよる。料理の仕方を考えるより、腹をへらして何でもうまく食べる工夫が大事じゃ。ところが料理人の料理というものは、いつもぜいたくをしている腹のくちい人間どもに食べさせたり、見せびらかしたりするようなものばかりじゃ。しかし食べ物の本当のうまさというものは、からだを働かせて腹をすかせたものにだけわかるものじゃ」

 

個人的な好き嫌いというよりも、当たり前のことを言ってます。

食べ物とか、料理人云々でなく、食べる時の自分の状態を重視してます。

いまの自分の状態はどうなの?

働いたの? 動いたの? 生きてたの?

 

 

働かざる者食うべからず。たぶん腹がくちいから。中途半端だから。

 

生き生きと働いた者、生き生きと動いたもの、生き生きと生きたものに、食うものは美味しい。それも本当の美味しさがわかる。

 

 

良寛さまが好き嫌いを言っても、「あなたはどうなの?」と聞かれているみたいで、好き嫌いに聞こえないのが面白いです。

 

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

 

雨安居 カティナ衣式

南方上座部 仏教儀式集」を読んでみたけど、その国の状況、時代の状況を鑑みて、私の知っている範囲では、儀式集の通り行っているお坊様もいますし、その通りにやっていないお坊様もいます。

 

スリランカの方は、許容したり、やっぱり駄目だと、厳しく見たり、いろいろです。

 

昔はお釈迦様の教えを守るために、厳密に行ったのでしょうが、サンガも社会の仕組み、時代の流れに取り込まれます。

 

お釈迦様の教えを守るための厳密な儀式が、在家の功徳、ご利益のための儀式、もしくは文化として変わってきていますね。

 

文化は文化として尊重します、でもこれが、「お釈迦様の正しい教えだ、信じなさい、信仰しなさい」というと、おかしなことになります。

 

儀式、慣習、文化は、よく調べないと、「こういうものだ」ということで巻き込まれやすいので注意が必要です。

 

物事は、まずは調べることをおすすめします。

 

自主勉強会

場所を借りて、法友と自主勉強会

 

 

 

 

法友の提案で慈悲の瞑想のフルバージョンを朗読

oldmanbuddhist.hatenablog.com

 

フルバージョンには仏教の全てが入ってます。

どこから読んでもいいですし、好きな場所を覚えるもよし。

 

下記の本を朗読しました。

 

 

本の内容について話したり、ときどき脱線したり。

 

脱線といっても、日常生活のちょっとした悩みとか、ほんのちょっとしたことをみんなでおしゃべりしたり。

 

「あー、あるある、」とか

「こういうときは、どうしてる?」とか

 

日常生活のシチェーションをネタに脱線です。

 

勉強や瞑想をしても、日常に生かさなければ、仏教読みの仏教知らずです。

日常で、日頃学んだことが試されます。

 

毎日の生活、日常は実践の場になります、これもでかこれでもかと問題が出てきて、試される状況にいるんですよね。

 

脱線のおしゃべりで、ちょっとでも悩みがやわらぐきっかけになればいいです。

 

今回は勉強半分、脱線半分の自主勉強会でした。

 

お幸せでありますように。