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おっさんは仏教徒

お釈迦様の教えは宗教ではありません、調べて、確かめて、実践する教えです

「生きる」=「バケモノ」 前回の続き

幸福

「生きるため」というよりも「生きてる」から行っている行為の数々、それが生きることで、それ自体が「バケモノ」。

きりがないから、ましてや「苦」であるから。

 

「やめたいことは、やめられる」より引用

このように、人生をごまかして生きてみても、老いる。病に陥る、死を迎える、愛する人と別れる、嫌な人々と付き合うはめになる、求めるものを得られないという苦しみがあります。それからは逃げられません。

仏弟子たちは、生きることをありのままに観察して、それは苦であると発見するのです。この仕事を成功させるためには、「生きる」という一般人の考えは、頭の中に現れたバケモノであると理解することが条件です、「人間には永遠不滅・至福の魂がある」という錯覚を破るために、この訓練が欠かせないのです。

 

我々は普段、「生きるために!!」「生きるために!!!」といろいろな行為をします、力んで生きると、結局、「苦」を増やすばかりではなかろうか?

 

生きてるだけで「苦」なのに、わざわざ「苦」を増やすようなことはしたくないですね、苦をなるべく避けるということです。

 

同じく引用

生きることは苦であると発見しても「苦を避けたい」という気持ちを捨てる必要はありません。現実は苦だからといって、苦を喜んで抱きしめる必要はないのです、これも巧みな選択です。

生きていたいという気持ちの代わりに、「苦を避けたい」という目的を持ちましょう。

そのようにする人は、次のようになります。

食べても食べ過ぎにならない。

寝ても寝すぎにならない。

仕事をしても、仕事こそが人生だと勘違いしない。

過労で死んでも仕事をすべきとは思わない。

生きるという名目で行っている一切の行為は、仕方なくやっているのだと理解する。そうすれば、それらの行為に対して、執着することも嫌になることもなく、冷静になります。

中略

具体的に言うならば、生きていたいから食べるのではありません。生きるために、死を避けるために食べるのではありません。生きているあいだは他の選択肢がないのです。

選択肢がないならば、悩む必要はありません、仕方なく食べればよいのです。冷静でいればよいのです。

そうすれば、食べるものによって心が揺らぐことがなくなります。それを他の行為に対しても実行してみるのです。仕方なく勉強する。仕方なく仕事をする。子どもが生まれたらなら育てる。身体が汚れたらならお風呂に入る。この訓練が身に付いたら、心は安穏に達します、これが幸福というものです。

 

仏教の幸福と世間の幸福はずいぶん違います。

世間では「お金があること」「地位があること」「家族があること」「健康であること」などです、存在欲をかなえることが幸福といいますね。

でも、仏教は、そういった存在欲に執着すると苦が増大するから、執着や苦を減らして、身軽に楽に生きなさい、という教えです。

 

「生きているんだから仕方なくやる」

そこには、貪瞋痴や自我がありませんね。

バケモノともさようならできます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

「生きる」=「バケモノ」

日常生活

「生きる」ために、日々いろいろなことをやっています。

 

日々やってるいろいろなことは、結局「生きる」ということに結びつきます。

 

「生きる」は人間が頭の中で勝手に作った「バケモノ」だと長老は言います、どういうことなのでしょうか?

 

「やめたいことはやめられる」より引用

 

「生きることは苦である」と発見する

私たちはただ生きていきたいだけで、生きるとはどういう仕事なのかと、調べようとしません。しかし、ありのままに人生を観察すると「生きることは苦である」と発見できます。原始脳の指令があるので「生きることは苦である」という事実を無視し、否定しているだけです。

現実を否定して生きることについて考えてみましょう。

なぜ、人は勉強するのでしょうか? 生きるためです。 なぜ人はご飯を食べるのか?生きるためです。 なぜ人は仕事をするのか? 生きるためです。

人間がやっているどんな行為にも、その質問を投げかけてみて下さい。答えはひとつです。生きるためです。では「生きるとは何なのか?」というと、それは知らないのです。人が頭の中で作り出した「生きる」というバケモノがいます。このバケモノのために、私たちは、食べたり、勉強したり、仕事したり、家を作ったり、その他のすべての行為をします。しかし相手はバケモノなので、面倒を見てあげたからといって、何の結果も得られません。

客観的に観察すると「生きる」という何か大切なものは見つからないのです。発見できるのは、生きるために私たちがやっている行為だけです。

たとえば、食べることが生きることではありません。生きているから食べているのです。呼吸することが生きることではありません。生きているから呼吸しているのです。人間がやっているすべての行為を調べても、「それは生きることではない。生きているから行っている」という結論になります。

中略

仏弟子たちは、生きることをありのままに観察して、それは苦であると発見するのです。

この仕事を成功させるためには、「生きる」という一般人の考えは、頭の中に現れたバケモノであると理解することが条件です。「人間には永遠不滅・至福の魂がある」という錯誤を破るために、この訓練が欠かせないのです。

 

 

 自分の頭の中で作り上げた「バケモノ」=「生きる」

よく考えてみると、このバケモノの命令は「死にたくない」「生きたい」から「いやなことはしたくない」「もっと欲しい」「食べたい」「眠りたい」・・際限が無いですね。

でも、このバケモノはどこにもいなくて、結局、このバケモノを維持するための、自分の行為しかない、ということです。

 

このバケモノをよく観察すると、「苦」であることを発見します。

 

生きている限り、悟らない限り、この「バケモノ」から逃れることはできないですが、このバケモノを少しでも軽くすることができる方法があるかもしれません。

 

生きている中で「苦」を減らす方法ですね、これに、もう少し注意を払ってもいいのではないでしょうか?

 

続きそうな気配です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

教義について

宗教って?

仏教徒は細かくて理屈っぽいので、納得のいくまで調べます。

 

いろいろ調べてテーラワーダ仏教に行きつきました。

 

ちなみに、日本テーラワーダ仏教協会による説明です

はじめにお読みください

 

最近はテーラワーダ仏教にも「?」部分があり、お釈迦様の根本の教えが、一番いいなあ、と思っています。

 

日本人は無宗教といいますが、たまには先祖代々から伝わる宗祖仏教の教えを徹底的に、ご自分で調べてみたらどう? なんて思います。

 

あと、新宗教新興宗教を信仰している人は、その宗教を定義づけている「教義」を徹底的に、ご自分で調べてみたらどう?なんて思います。

 

よく調べもしないで、「あの人がいいって言うから」とか「あの人が入っているから」とか「ご利益がある」とか「病気がなおる」とか、そういった理由で入っている人もけっこう多いのではないでしょうか?

 

人の言ったことは鵜呑みにせず、時間があったら、ご自分で資料を集め徹底的に調べることをお勧めします。

 

大事なのは、感情ではなく理性的に、論理的に調べること。

 

けっこう、論理的におかしい宗教って多いです。

あと、道徳的にもおかしいんじゃない?ってのも多いです。

あと、公式HPにきちんと教義を掲載してないのも多いです。

 

宗祖様は一人なのに、勝手に分裂、すごいことになってるのも多いです、教義も複数になってます、この現状を宗祖様はどう思うのでしょうか?

 

きちんと調べると、人間のやることって、けっこういい加減だとわかります。

 

自分自身の信仰なのに、なぜ、きちんと調べないのでしょうか?

不思議です。

 

たまには、本気で調べることをおすすめします。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

いい道具になろう

仕事 日常生活 自我

人間がマシンになる話ではないです。

 

人間の仕事をAI(人工知能)がとって代わる、という話でもありません。

 

 

役に立つ、必要とされる、ためには、いい道具になろう、という話です。

 

「もう迷わなくなる最良の選択」より引用

 

第8章 みんな社会のひとつのピース

 

「いい道具」になろう

日常生活を見回してみると、さりげない存在ですが、とても役に立っているものがいろいろあります。

たとえば、紙パックのジュースを買うと、裏側に小さなストローが付いてあります。人はジュースが飲みたいと思って買うのであって、あのストローが欲しいと思って買うことはありません。でも、あれがなかったら困りますね。必要とされています。立派に役割を果たしています。「じつに頃合いのいい存在だなあ」と、私はあれを見るたびに思うのです。

 

人間はすぐに「自分が、自分が」がと言って主役になりたがろうとしますが、あのストローはずっと脇役人生を歩んでいます。あのストローを生き方のお手本にしたらいいのではないですかね。

 

車のワイパーもいい仕事をします。あれがなければ、雨や雪の日は視界が悪いので車に乗れないでしょう。車のパーツの中ではけっして花形の存在ではありませんが、なければ困ります。とても役に立っています。

 

自転車のライトも役に立っています。乗っている人の視界を明るくしてくれるだけでなく、あの光によって車や歩行者が「向こうから自転車が来る」ことを認識できます。二重の意味でも危険を遠ざけてくれています。

 

社会の中で一つのピースとして役に立つ存在になるということは、そういった「いい仕事をする道具」になることと同じです。私たち人間も、社会の中においてなにかしら道具として役に立つために存在していると考えたほうがいいのです。そうしたら自我の入ってくるような余地はありませんから。

 

 

やはり、ここでも「自我」が出ますね。

「自我」がいろいろなことの障害になります、「やりがいがない」とか「こっちが儲かりそうだ」とか、「もっといいことがあるかもしれない」とか、なんか中途半端に迷ってますね。

 

グズグズ迷うくらいなら、自我の余地がないくらい、役に立つ道具に徹して、無くてはならない脇役になったらどう?という話です。

 

自我が無いので、たぶんうまくいくと思います。

 

シンプルで、とても好きな話です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

この本を見ると、長老の衣の色を連想してしまいます。

 

 

 

 

親子の業

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スマナサーラ長老の新刊

ブッダの智慧に学んで子育てのプロになる」

 

「親子の業」について書かれています。

 

親子の業について書かれたものは初めて読みました。

長老の法話でも聞いたことがないかもしれません。

 

例えば、どうしようもない両親のもとに、すごく気立てが良く、頭のいい子が生まれてくる、遺伝ではまったく説明がつかない。

 

私の理解で恐縮ですが

 

業と因果法則と輪廻転生で説明がつきます。

 

過去世で善業を積んだ結果が今世に現れている、ということです。

すべての物事には原因があり、その結果が現れるということです。

死んでも終わらない、続くということです。

 

引用

たとえば、過去世でお兄さんから世話になった弟がいたとします。さんざん助けてもらったのに、お兄さんが困ったときは力になってあげなかったとすると、その時点でお兄さんに借りができます。その二人が、今世では親子になる可能性もあります。弟だった人が、借りを返すために過去世の兄を子にもって、一生懸命育てるかもしれません。あるいは弟が、お兄さんだった人の子として生まれ、借りを返すために必死で親孝行するかもしれません。

仏教の業の視点で考えれば、親子とは、このように過去世でなんらかの関係があった同士なのです。過去世でも親子だった場合もあれば、過去世で血縁がなかった場合もあり得ます。生命は一人では生きられませんから、いつでも周りの生命に助けられて生きています。そこでどうしても貸し借りが成り立ってしまうのです。輪廻転生の中でお互いの関係を変えながら、その借りを返していくことになります。

 

 

 

 

悟らないかぎり、輪廻転生が続くので、お世話されたり、お世話したり、その逆(悪業)も続きます。

 

私はお世話のほうがいいです。

 

私の子は、過去世で、私がお世話になった方かもしれません、私と違って、とてもいい子なので、過去世で善業を積んできた方なのでしょうか?

 

業の話は難しいです。

 

でも、言えるころは、常に悪いことは避けて、善いことをする、ということですね。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

ブッダの智慧に学んで子育てのプロになる

ブッダの智慧に学んで子育てのプロになる

 

 

慈しみは仏教徒の基礎

慈悲 五戒 冥想

慈しみの心をきちんと育てないで、ヴィッパサナ―冥想をしても、日々の実践をしても、たぶん、うまくいかないです。

 

慈しみは仏教徒の基礎の基礎です。

 

あと五戒ですね。

 

慈しみ、五戒をきちんとやったうえで、冥想や実践になります、だから、逆に言うと、慈しみと五戒を伴わない冥想や実践は「ごくろうさま」で終わります。

 

ブッダの教え一日一話」より

 

修行しても「ご苦労さま」で終わる

 

いくら修行しても「ごくろうさま」で終わる人がいます。

その理由は、慈悲の心を育てていないからです。慈悲の心のない人は「自分だけよければ」という生き方をしています。

その気持ちをもっていくら修行してもエゴが強化されるだけです。

だから修行して立派な人間になりたいと思う人は、慈悲の実践でエゴを破ることです。

 

 

 

慈悲の実践として、慈悲の冥想があります。

 

やり始めたころ、たいていの方が下記にひっかかるようです。

引用します

仏教講義 24.ストレス完治への道 (5)慈しみの心で人生を縫う

 

嫌いな人にも慈しみを

 

 それから、自分の邪魔をしたり、傷つけたり、足を引っ張ったりする人や、悪事を働く愚か者たちに対しても、慈しみで対応できる優れた人間になることを目指してください。たいていの人はここで引っ掛かるのです。「人に優しくしたいのですが嫌いな人には優しくしたくありません」とか「足を引っ張る人に優しくしたら、さらに私の足を引っ張るのではないか」と、そういうことを言うのです。しかし、自分を貶したり傷つけたりする人に対して慈しみの気持ちを向けることによって、私たちは立派な人間になれるのです。敵を許す人は、臆病者でも負け犬でも腰抜けでもありません。真に強い立派な人間なのです。敵を攻撃してつぶそうとするやり方は、動物のやり方なのです。

 

「わたしの嫌いな生命もしあわせでありますように」

これですね、嫌いな生命にも慈しみを実践しなさい、とお釈迦様は説いています、お釈迦様が言ってることなので、「やる」ということです。

 

つべこべ言わず、仏教徒は実践あるのみ。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

 

 

 

「お魚」

生きとし生けるもの

金子みすずさんの詩に「お魚」があります。

 

「お魚」

海の魚はかわいそう

お米は人につくられる

牛は牧場でかわれてる

こいもお池でふをもらう

けれども海のお魚は

なんにも世話にならないし

いたずら一つしないのに

こうしてわたしに食べられる

 

ほんとに魚はかわいそう

 

お魚は、人間の世話になんかなっていない、人間に悪さもしていない、なのに食べられる、かといって人間を恨むこともない、バカな人間は、魚は人間に食べれて当たり前だと思う。

 

「お魚がかわいそう、食べるな!」って話ではないです。

 

どれだけ、他の生命のお世話になって、我々は生きているか・・ってことです。

 

いろいろな生命のお世話になっているのですから、返さないとですね。

 

「みーんな生きとし生けるもの!上巻」より

 

私は、生命の間で調和が保たれるように精進します。

 

細菌やウイルスを嫌わない

 

すべての生命は敵ではなく、仲間だと気づいてください。皆、地球の生命体系の中でお互いに助け合って生きていて、他の生命がいなければ、我々も生きてはいられません。ですから、すべての生命が幸福で無事に生きてほしいと願わなければならないのです。

例えば牛や豚が、「人間が自分たちを食べてばかりでけしからん。強烈な怒り心を持とう」決めたとしたら、彼らの肉を食べた我々は死んでしまいます。怒りのこころは毒になるからです。しかし牛や豚や鶏などは、人間にどれほど殺され食べられても、すごく優しい心を持っています。ですから彼らの肉をいくら食べても、人間の体は悪くはならないのです。これは魚も同じです。

私は、魚や鶏や牛や豚などの生き物がかわいそうでたまりません。あれほど人間につらい目に遭わされているのに、彼らのこころは優しいからです。魚など、少し付き合ったら猫のように遊びにきます。あれほど人間に殺されて食べられても、そうしたことはあまり気にしてはいません。彼らは人間よりもずっとすばらしい。

我々は、他の生命に助けられて生かされています。身体の中も微生物でいっぱいです。それなのに、人間だけがバクテリアを敵視して戦争をしかけたり、ウイルスをやっつけようと必死になったりしています。そうして行為は一生懸命に病気になろうとしているようなものです。生命は、競争ではなく共存しなければなりません。

 

 

人間同士、怨みを持って争うと、めちゃめちゃになりますね、へたすると地球が壊れるくらい。

 

お魚は、どんなひどいめに遭っても、世界をめちゃめちゃにしません。

 

お魚のほうが、人間よりはるかに立派です。

 

人間もお魚に負けないくらい立派にならないと、ですね。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

みーんな生きとし生けるもの! 〈上巻〉

みーんな生きとし生けるもの! 〈上巻〉