おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

慈教(メッタスッタ)を覚える(10)第三偈 一行目、二行目

お経の暗唱は第五偈まで覚えました。

 

第六偈にとりかかってます。

 

若いころはこれくらい簡単に暗唱できたのでしょうけど、50歳を過ぎると記憶力がガクンと落ちます。

 

一週間かかって、やっと一偈を覚えます。

 

 

 

テキストは下記を参照していますが

 

 

もう一冊参照しています

木岡治美さんの「日常読誦経典 パーリ語ノート」

アラナ精舎の落慶法要記念に出された本です

落慶法要には参加できませんでしたが、なぜか持っています。

木岡様、ありがとうございます。

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いよいよ第三偈です

第三偈

 

ナ チャ クッダン サマーチャレー キンチ

イェーナ ヴィンニュー パレー ウパワデッユン

スキノー ワー ケーミノー ホントゥ

サッベー サッター バワントゥ スキタッター

 

(智慧ある)識者たちが批判するような、

どんな小さな過ちも犯さないように。

幸福で平安でありますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

ナ チャ クッダン サマーチャレー キンチ

イェーナ ヴィンニュー パレー ウパワデッユン

分解します

 

否定 副詞

 

チャ

そして

しかしして

 

クッダン

小さな

 

サマーチャレー

行う

実行する

 

(頭の否定の副詞をつけて)

ナ サマーチャレー

行うことのないように

 

キンチ

なんであれ

 

イェーナ

それによって

 

ヴィンニュー

識者たちが

 

パレ

他の

 

ウパワデッユン

非難するであろうような

 

 

くっつけると

なんであれ それによって 識者たちが他を非難するであろうような、しかしして 小さなことをするなかれ

 

協会訳

(智慧ある)識者たちが批判するような、どんな小さな過ちも犯さないように

 

 

小さな過ちは、仏教でいう「悪いこと」かな?

 

派手でわかりやすい大きな悪いこともありますが、日常の意識もしないような小さな悪いこともあります。

 

仏教はいいこと、悪いことは決まってますので、だいたいは判断できるのですが、でも怖いのは「小さな悪いこと」です。

 

「小さな悪いこと」は、知らないうちに少しづつ貯まってきて、いつのまにか、にっちもさっちもいかなくなります、いつの間にか、まともなことが出来ない人間になっています。

 

ちょっとずつ、じわじわ侵されるほうが怖いです。

 

 

仏教を学ぶ善友から「それはダメだよ」と言われたことは、やらないほうがいいです。

 

どうでもいい人からどうでもいい非難をされるのは平気ですが、人格者からとがめられたら真剣に直さなくていけないです。

 

一番の人格者はお釈迦様です、お釈迦様が「ダメだよ」ということは、頑張ってやらないほうがいいです。

 

 

人格者が「それは善くないよ」というような、どんな小さな悪いこともしないように。

 

小さな悪いことができない人は、当然、大きな悪いこともできません。

大きな悪いことは、小さな悪いことの積み重ねなんでしょうね。

 

次はいよいよ、慈悲の実践をやらせていただけます。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

 

 

お引越し

善友の貴重なご尽力により、スリランカのお寺が引っ越しします。

 

私も微力ながらお手伝い

いつも、口先ばかりですみません。

 

慈教の勉強も大事ですが、善友とあれやこれや楽しく作業するのも大切です。

 

本日は、新しいお寺に、お釈迦様がお見えになりました。

菩提樹様もお見えになりました。

お釈迦様がお見えになると、お寺らしくなります。

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たしか、雨安居中なのですが・・・、雨安居中にお寺がお引越しということも

なかなか経験できないことです、なんだかすごいです。

 

引っ越しの作業のあと、カティナ衣法要の打ち合わせ

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私はもうヘトヘトでした、みなさまのバイタリティーに頭が下がります。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

慈教(メッタスッタ)を覚える(9)第二偈 四行目

第二偈

 

サントゥッサコー チャ スバロー チャ

アッパキッチョー チャ サッラフカヴッティ

サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ

アッパガッボー クレース アナヌギッド

 

第四行目です

アッパガッボー クレース アナヌギッド

 

分解します。

 

アッパガッボー

傲慢ではない

 

クレース

家々において

 

アナヌキッド

貪り求めないもの

 

(また)傲慢ではない、(托鉢する)家々において 貪り求めない

 

協会訳

裏表がなく在家に執着しないように

 

 

出家のお坊様に言ってるのでしょうか?

 

アッパガッボー

お坊様に裏表があると非常にまずいです。

 

テキストからの引用です

たとえば心は落ち着いていないにもかかわらず、信者さんたちが来るとすごく丁寧に落ち着いたふりをする。冥想なんかしないにもかかわらず、人が来る時間だと思ったらサッと冥想を始める。「皆が褒めてきれるだろう」とか「私のことをよく思ってくれるだろう」と計算しながら行為をするのは、出家であろうと在家であろうと、ものすごく嫌らしい行為です。

 

腹の中ではまったく違うことを考えるのは傲慢なんでしょうね。

 

裏表がないほうが、愛嬌があっていいです。

 

でも「ええかっこしい」はタチが悪いです、「ええかっこしい」はやめなさい、ということです。

 

 

クレース アナヌキッド

とても良く世話をしてくれる在家は、ありがたいですけど、お坊様たるもの、それから離れることができないで執着してはいけません、ということです。

 

良くしてくれることに執着すると、人間関係、経済関係など、いろいろなしがらみが生じます、泥沼になるかもしれません、泥沼の状態では慈悲の冥想はできませんね。

 

泥沼ではなく「あっさりと」が大事です。

 

在家も同じことがいえます。

 

 

ここまで、慈悲の実践をするための前段階を説いています。

 

簡潔にムダなく具体的に説いてます、日本のお経とはまるで違います。

 

 

お釈迦様の要求はかなり高いです、いまだに慈悲の実践はやらせてもらえません。

 

ここまでやらなければ慈悲の実践はできない、ということです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

慈教(メッタスッタ)を覚える(8)第二偈 三行目

第二偈

 

サントゥッサコー チャ スバロー チャ

アッパキッチョー チャ サッラフカヴッティ

サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ

アッパガッボー クレース アナヌギッド

 

三行目です

サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ

 

分解します

サンティンドゥリョー

感覚器官が静まったもの

 

チャ

また

 

ニパコー

賢明なもの

 

チャ

そして

 

くっつけると

感覚器官が静まったもの また 賢明なもの

 

協会訳

諸々の感覚器官が落ち着ていて、賢明で、

 

目や耳や鼻はいつも落ち着ていませんね、目で見ていろんな感情をもよおしたり、耳で聞いていろんな感情をもよおしたり、鼻からの嗅覚で、これまたいろいろな感情をもよおしたり、普段はおとなしくしていません。

目や耳や鼻からの感覚に振り回されて、落ち着かない状態では慈悲の冥想はできません。

どうでもいい、ムダな反応だと思って、まずは落ち着くことです。

 

目や耳や鼻からの感覚はありますが、それによって、浮ついたり、怒ったり、悲しんだり、享楽にふけったり、というようなことをしない人になりなさい、ということだと思います。

 

目や耳や鼻からの感覚や感情に振り回されない人は、気づきがある人です。


気づきがあり、賢明でありましょう、ということです。

 

まだまだ慈悲の部分には行きません、念入りに前段階をやらなければ、慈悲の冥想は成功しないということです。

 

 

慈教(メッタスッタ)を覚える(7)好きな調子で唱え、儀式やしきたりにとらわれずに。

メッタスッタを覚える、ということで、毎日コツコツ暗唱してます。

第四偈まで覚えました。

 

スリランカのお坊様、スマナサーラ長老、お二人の読誦をスマホで聞いているのですが、覚えるにはスマナサーラ長老の読誦の調子が合っているみたいです。

 

下記の本で聞くことができます。

 

 

上記の本で、長老は

このCD BOOKに収録されている経典を唱えてみて、ブッダの智慧の力を実感してください、そのときの気分と時間に合わせて、経典を選んで読んでみるのがよろしいと思います、テーラワーダ仏教国では伝統的な唱え方がありますが、それぞれ自分の心が穏やかになる節、調子で(声明でも、謡いでも良いのです)唱えてみてください。

単なる儀式やしきたりとしてお経を読むものではなく、そこに説かれた真理を理解することで、みなさまに智慧が現れますようにと祈念いたします。

 

仏教について、いろいろな本がありますが、ダイレクトに、単刀直入に、ズバリ、お釈迦様の教えの真髄に触れるのは、パーリ語のお経が一番です。

 

仏教の本を読むより、難易度は高いですが、暗唱できるようになれば、本いらずで、好きなときに唱えて、いつでも自分の傍らにいます。

 

覚えやすいように、自分の好きな節回しでもOKです。

 

スリランカの方はお経を復唱する際、実際、ものすごい速いスピードで唱えます。

プージャときとか、もっとゆっくり味わい深く唱えたいなあ、と思うことがありますが、これがしきたりなのかもしれません。でも。これはこれでいいです。

 

現代は便利になり、スマホに入れて聞いたり、車の中で聞いたり、時や場所にとらわれずにお経に接することができます。

 

好きな調子で唱え、どうでもいいことにとらわれずに、自分のものにしていきたいです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

慈教(メッタスッタ)を覚える(6)第二偈二行目

また、メッタスッタに戻ります。

2行目ですね。

 

第二偈

 

サントゥッサコー チャ スバロー チャ

アッパキッチョー チャ サッラフカヴッティ

サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ

アッパガッボー クレース アナヌギッド

 

「アッパキッチョー チャ サッラフカヴッティ」

 

分解します

 

アッパキッチョー

為すべき雑務が少ないもの

 

チャ

また

 

サッラフカヴッティー

軽い簡素な生活者

 

くっつけます

為すべき雑務が少なく また軽い簡素な生活者(であり)

 

協会訳は

雑務少なく簡素に暮らし

 

毎日、ガチャガチャ、うるさく ややこしい生活してると、たぶん混乱してるので慈悲どころではありませんね。

 

雑事を少なくといっても、けっこう日常は雑事に追われます、テキストでは「雑事の定義はその人によるし、能力によります」とありました、、また、「まったくできない仕事に手を出して困るよりは自分は自分の、相手は相手のできる仕事をさっさとする、そうすれば雑事という問題が解決します」ともありました。

 

社会生活をしていると、いろんな雑務が巡ってきます、その都度、その都度、自分の役割を定義して、どう対処するかですね、役割と雑務です。

 

雑務も心穏やかに混乱なくやっていけば、慈悲の冥想ができますね。

 

 

サッラフカヴッティー

テキストには「軽い生活、簡素に生活するということですね、すごく簡単で軽々と生活する。自分の日常の生き方はできるだけ簡単単純のほうが、気楽で気持ちがいいのですね」とあります。

 

昔のお坊様は鉄鉢ひとつで顔を洗い、体を洗い、洗って拭いて、托鉢の食事を入れてもらって食べる、ひとつで全部済みます。シンプルで何も悩むことはないですね。

 

お坊様は極端な例かもしれませんが、衣食住でいちいち悩むことがないシンプルライフを心がけよ、ということでしょうか?

 

また、シンプルライフだと、雑事も少なそうですね。

 

こうやって、慈教は、ひとつひとつ、慈悲の冥想がスムースにできる状況を作っています。

 

 

 

 

 

お釈迦様の前ではみんな仲良く

最近、いろいろ思うところがあり、テーラワーダ仏教をやっている方が、日本仏教やお坊様を非難したり、テーラワーダ仏教内でも、檀家さんがお坊様を非難したり、檀家さん同志、仲がわるくなったりしたり、ということがあります。

およそ、仏教徒らしくないことです。

 

信仰している宗派が嫌になったり、お寺が嫌になったり、お坊様が嫌になったりする、ならば、宗派を変える、お寺を変える、お坊様を変える、「変えれば済む」と思っている方もいますが、本当にそれが根本の解決になるのでしょうか?

 

今の私にピッタリの文章があったので引用します。

 

パティパダー2014年11月号より

釈尊の教え・あなたとの対話

 

宗派を超えた和合

質問

テーラワーダ仏教を勉強し、冥想など実践されている方で、日本仏教やお寺さんを毛嫌いする方がおられます。複雑な気持ちです。確かになかには相当非のあるお坊様もおられるかもしれませんが、真面目で立派な方も多いかと思います。一生懸命お寺を支え、仏法を支えている檀家さんもたくさんおられます。お互い仏縁がある者同士として、宗派を超えて、思いやりを持って、仲良くしていくことは出来ないものでしょうか?

 

長老のお答え

非難することは自我

もし初期仏教を学び、ヴィッパサナー冥想を実践している人々が、他のお寺、日本仏教

全体のことを非難したりするということは、これは完璧な間違いです、偉そうに自我を張っているのです。冥想しても全然こころが成長していないという証拠になります。「あなたは自分の教えを守っていないのですよ」とそう言ってあげて下さい。

人を非難することは、お寺だけでなく他宗教に対しても、人間としてやってはいけません。私は教理学的に面白おかしく言っているだけです、私もいろいろなことを言います。それは非難、侮辱ではないのです。それは皆にできるわけではありません。

ですから、質問に「相当非のある方もおられるかもしれませんが」とありますが、私が知っている日本のお坊さんの中では、ほとんどそのような人はいません。ただ信者さんが怖くて、大人しくしているだけなのです。みんな本当に立派な方々なのです。私はたくさんのお坊さんたちを知っていますし、いろいろな本山にも行ったことがありますが、非のあるお坊様に会ったことはありません。私といろいろ言い合った若い人たちも、ものすごく立派な方々でした。それは若者だから何か言いたくなっただけの話です。

人を非難する時点で自我なのです。これは決してやってはいけないことなのです。私たちは他人の長所を見る目を持たなくてはいけないのです。そこから始まるのです。短所を見る権利は無いのです。短所を見る場合は、自分の子どもとか、学校の先生だったら生徒たちとか、それは短所も知っておかないと困ります、そこを直してあげなくてはいけないからです、社会では、私たちは、人の長所だけを見る色眼鏡を持っていたほうがいいのです。誰とでも仲良くすることが仏教でしょう、それが仏教の世界です。

 

「誰とでも仲良くする」仏教徒の生き方

世界の宗教の間で、かなりの争いがあるでしょう、イスラム教では、平和の宗教と言いながら、スンニ派シーア派が殺し合いをやっています。キリスト教でも昔からカトリックとプロステタントは争っています。今でもあまり仲は良くありません。

では仏教ではどうでしょうか?

仏教も宗派がたくさんあるのですが、ケンカをするのでしょうか?ケンカはしません。しきたりが違うのでわからないわからない部分もあるのですがケンカはしません。日本のお坊さんたちは。日本のお坊様も出来る範囲で、人格者として頑張っています。

私もこれからやりたいことは、そのような立派なお坊様たちを日本人に紹介したいのです。すごく立派な坊様に、いろいろアドバイスを受けたり、悩みごとをなくしてもらったり、人生を幸福にする道を教えてもらったりしないことは、とんでもない損なのです、大油田の上に小さなプレハブの家を作って住んでいるようなものです。ちょっと掘ってみれば、とてつもない得をします。

ですから仏教徒は「誰とでも仲良くすること」がひとつの生き方なのです。人間だけではないのです、動物など他の生命ともです。例えば、自分の家に幽霊がいたとしても除霊してはいけません「仲良くしましょう」という気持ちでいなければなりません。それだけです。

そういうことで質問にあった非難する方は、これは勉強不足で自我を張っているだけの話なのです。

 

 せっかく仏教を習っても、自我の張り合いをしていたら、滅茶苦茶になります。

 

仏教徒なら、自我を張ってはいけません。

自我を張って、誰とでもケンカをするのは簡単、非難するのも簡単。

でも、自我を捨てて、「誰とでも仲良くする」というのは、すごく努力を必要とする生き方です。

 

自分が気に入らなければ、宗派を変える、お寺を変える、お坊様を変える、というのは一見簡単な解決方法かもしれませんが、自分の自我と正面から向き合っていないので、根本の解決にならないし、ちょっとでも気にいらないことがあると、次から次へ変えていくでしょう。

 

なんで、気に入らない、という感情が起きるのか、考えてみれば・・。

 

お釈迦様の前ではみんな仲良く、というタイトルですが、目の前にお釈迦様がいなくても、いつでもみんな仲良く、が仏教徒です。

 

お幸せでありますように。

 

 

下記「ブッダラボ」のチエリさん、関連記事です。

さすがです、3年も前に、このことをご指摘してました。

thierrybuddhist.hatenablog.com