おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

戒律と飲酒

飲酒することをやめてけっこう経ちました。

 

 

飲酒することで得るものがあり、捨てるものがある。

 

飲酒をやめることで、得るものがあり、捨てるものがある。

 

私は後者をとりました、とても大きな利益を得ました。

利益といっても地位財ではなく、地位財以外のものを得ました。

 

在家には守るべき五戒があり、飲酒はやめたほうがいいよ、言ってます。

oldmanbuddhist.hatenablog.com

 

 

 

で、飲酒に関しては、けっこうしつこく書いてますね。

oldmanbuddhist.hatenablog.com

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在家は五戒を守ろうとしますが、不飲酒戒を破っても、とくにペナルティはありません、罰はありません、罰を下す人がいませんから、罪にもなりません、罪だと認める人がいませんから・・・。

 

ただ、飲酒という行為で、なした業は消え去ることなく、いつか果をもたらす、ということです、ここが怖いところです。

 

 

話は変わりますが、比丘が飲酒をしたらどうなるか?

 

タイ国にテーラワーダの戒律の本では

 

飲酒は、パーチッティヤという罪になり、違反した比丘が、サンガに、あるいは、三、二、一人の比丘に告罪(懺悔)することで、浄化される罪。

罪は消滅するけど、なした業は消え去ることなく存在し続けます。

因果法則の通り、なした業は消え去ることなく、その果をもたらすことになります。

 

 

 

戒律と飲酒で、とてもいい話がありました。

チエリ様、いつもありがとうございます。

thierrybuddhist.hatenablog.com

 

 

戒律は理性で行う。

理性に酒はいらないなあ。

酒に頼らずとも理性があると楽しく過ごせますよ。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

 

 

 

 

 

仏教徒には二人の師匠がいます。でも共通の師匠はお釈迦様

「指導者、和尚、師匠」

私自身は「師匠」という言葉がぴったりくるのですが、どうでしょうか?

 

やはり、仏教では師匠がとても大切です。

 

今の時代、本を読んでの独学もできるでしょうけど、わからない点を尋ねてみる、自分が正しい方向へ進んでいるかチェックすることも大切です。

 

自分では正しいと思っていても、いつの間にか、曲がった方向へ、もしくは勝手に解釈した方向へ、もしくは楽な方向へ、という場合があります。

 

師匠に尋ね、チェックすることはとても大切です。

 

 

下記の法話にスマナサーラ長老が「師匠」について述べられています。

巻頭法話(245) 師匠

 

 

ブッダは人類に大師匠で、自分に真理を教えてくれるのは、自分個人の師匠です、仏教徒には二人の師匠がいるのです。

 

 

 

在家の方なら、そんなに深く悩むことなく、自分の尊敬のできるお坊様がいたら誰でもいのではないでしょうか?

でも、仏教徒、共通の師匠はお釈迦様です。

 

チエリさんのブログからです

thierrybuddhist.hatenablog.com

 

 

いま、戒律に関する本を読んでいますが、概論というか、わかりやすい解説がありました、沙門果経の「小戒、中戒、大戒」についてです、出家の外から見える生き方について述べたものです、この「小戒、中戒、大戒」が終わると、「心の戒律」について述べられます。

 

下記HPでは「小戒、中戒、大戒」までです。

パーリ仏典を読む 沙門果経(17-19) 第三章 仏陀の話 出家の論理的な生き方《小戒》

パーリ仏典を読む 沙門果経(19後半〜21) 第三章 仏陀の話 出家の論理的な生き方《中戒》

パーリ仏典を読む 沙門果経(22〜26) 第三章 仏陀の話 出家の論理的な生き方《大戒》

 

上記の戒律は表面的なものです。

 

「心の戒律」については下記の本をお読み下さい。

 

 

 

仏教徒は「これでもか、これでもか」と勉強ですね。

 

まだまだ戒律に関するメモは続きます。

お幸せでありますように。

 

修行には、まずは和尚(指導者)が必要

南方上座部 仏教儀式集」に沙弥が比丘出家になるための受具足戒の作法について書いてあります。

 

「今日から、私は比丘出家になります」と宣言してもなれません。

その前に「サンガ」もありますし。

サンガを無視しての儀式作法はあり得ません。

 

お釈迦様はおっしゃってます

「比丘たちよ、和尚のない者は、具足戒が授けられるべきではない、(和尚がないのに)具足戒を授ける比丘は悪作罪になる」

 

 

和尚を得る作法から始まります。

 

まずは和尚(指導者)を諸い求めさせるべきである、とあります。

 

教戒師が「あなたは和尚を得なさい」と言い。

 

比丘になりたい沙弥は、和尚の前で跪座して

「尊師よ私の和尚になってください」と三度唱えるべきである、とあります。

 

 

次が和尚を与える作法で、

 

和尚は

「清らかな行い、言葉、心をもって努めなさい」

と和尚の許可を与えます。

 

 

仏教を学ぶにも、瞑想するにも、お経を覚えるにも、一人ではできません、指導者が必要です、出家比丘になるためには、まずは指導者が必要です。

 

きわめて当たり前のことです。

 

一人で勝手に学ぶ、というのは仏教ではあり得ません。

 

 

 

 

 

で、思ったのですが、在家の場合、指導者はどう求めればいいでしょうか?

 

自分の好きなお坊様になるんでしょうけど・・。

好きなお坊様でいいのではないでしょうか。

 

わからないことがあったら、自分で調べることも大事ですが、自分が師と仰ぐお坊様に尋ねることも、とても大切だと思います。

 

一人よがりにならず、きちんと正しい方向に導いてもらい、師弟が一生懸命修行に励む、というのもいいもんですね。

 

この儀式作法は「実践」と「教義」のギャップがうまく埋まっていると思いました。

 

ちなみに、私の師匠はスマナサーラ長老です、気軽に質問できないところが残念ですが。

 

でも長老から

「清らかな行い、言葉、心をもって努めなさい」と言われたら

たまらなく嬉しいだろうな・・と思います。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

あー、いいことが書いてある。片山先生の序文

中山書房仏書林さん発行の本「南方上座部 仏教儀式集」に片山一良(かたやまいちろう)先生の序文がじつにいいです。

 

冒頭引用します

仏教は本来儀式なるものを必要としなかったと言える。少なくとも仏教が無我ないし空を標榜するかぎり。形ある「儀礼」は意味を持ち得ない。最初期の仏典に知られる出家生活では、むしろ反儀礼の、もっぱら無所有とか独座が強調され、一般的な「儀礼社会」の観念がほとんど現れてこない。たとえば比丘になるにも、釈尊による「来たれ、比丘よ」(エーヒ ビック)の一言で事が足りたという。ところが比丘の数が増えるにつれてサンガ、つまり「出家社会」は組織化され、儀礼化が進んでいった。仏教の個人レベルから集団もしくは社会レベルへの実質的移行、変化でもある。儀礼が必要とされ、意味を持つのはここからである。集団生活における「実践」と「教義」とのギャップを埋める役割を果たすもの、統合機能を有するもの、それが儀礼である。

 

もともとは儀礼はなかったのですが、比丘の数が増えるにつれ、必要になってきたのですね。

 

もともとは仏教の実践と仏教の教義を埋めるもの、仲立ちをするものだったのですね。

 

私が勝手に思って恐縮ですが、仏教の儀礼には、「教義となんの関係があるの?」というのもあります、教義にのっとった儀礼はいいのですが、まったく教義と関係ない儀礼のための儀礼もあります。

 

仏教と関係のない儀礼は、やはり「文化、習慣」ということで、区別したほうがいいですね、ホント、解脱とは関係ないですから。

 

お釈迦様が生きていたころから、戒禁取といって、解脱に至らない道であると言ってます。

 

戒禁取

無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼。預流果を得ると、これらは解脱に至らない道だとわかる。

 

 

宝経(ラタナスッタン)の第十偈にも出てます。一部引用。

知見の成就と共に、

以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られたことになる。

有身見、疑、戒禁取なり。

 悟りに近づくと、戒禁取は捨て去られることになります。

 

 

長老時代の西澤先生の戒禁取見についてのコメントがありました。

arana-vihara.blogspot.jp

 

 

最後、スマナサーラ長老、儀式儀礼に囚われずに、どうやって仏教の修行を続けるか?

本質的なことをおっしゃっています。

巻頭法話(181) 修行は独りでおこなう

 

仏教は心を清らかにするための修行であり、それと関係ない儀式・儀礼は文化習慣ということで区別ですね。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

右側の本を参考にしました。

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ありがとうございました。 中山書房仏書林 様

私用で東京に行くのは10年ぶり

 

到着してすぐ、家族と別れて別行動

 

向かった先は仏教書の専門店

 

仏教書の専門店は地方にないので訪問が楽しみ

 

湯島にある「中山書房仏書林」

www.kotobuki-p.co.jp

 

当日電話で確認したら、本当は休みだったらしい。

でも14時頃にお店を開けていただきました。

一人静かに仏教書を見るのはとても楽しい

貸し切りみたいな感じでした。

 

絶版になったアビダンマッタサンガハを新装版で出していました。

拍手です、拍手です。

ここで出さないと、日本語版は永久に失われるところでした。

 

アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説

アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説

 

 

 

地方から来た、ということで5パーセント引きにしていただきました。

誠にありがとうございました。

 

本当に大事にしたい書店です。

 

 

買った本は、テーラワーダ仏教の儀式関係と比丘戒律に関するものです。

アマゾンでは売ってないので、手に入って嬉しい

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やはり気になるのは雨安居とカティナ、詳細に書いてありました。

 

過去記事ですが、やはり気になるのです。

oldmanbuddhist.hatenablog.com

oldmanbuddhist.hatenablog.com

 

これから、読んでいきます。

 

久しぶりの東京でした。

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前野隆司先生の受動意識仮説 「心とは何か」

仏教では、自我はない、自分はない、ということを説いてますが、科学者の先生がおっしゃると、なかなか迫力があります。

 

幸福について研究している先生がいらしたのですね

前野隆司先生

前野隆司 - Wikipedia

 

 

 

目を引いた部分があり下記の本より引用します。

 

仏教と科学が発見した「幸せの法則」

仏教と科学が発見した「幸せの法則」

 

 

受動意識仮説

私たちには、自分の意識が自分の全てを動かしているイメージがありますが、前野先生は研究することで、それが180度変わってしまったとおっしゃいました。その研究結果を踏まえて「心とは何か」ということについて教えてください。

 

前野

私が提唱している受動意識仮説によれば、心は幻想、あるいは錯覚です。心は本当はありません。しかし私たちはあるように感じています。愛や妬み、がんばるぞ、という気持ちも、あるようでいて、本当は無いのです。

 

 

「人間がエピソードを実感するのは、自分の経験を覚えるためなのではないか、経験によって何かを作り出しているのではないか」というのが私の「受動意識仮説」です。無意識のほうが先にあり、意識はその結果をあとで受け取っているにすぎない。言い換えれば幻想みたいなものではないか、と思っているのです。

いわば逃げ水のようなものです。遠くのほうに、ありありと水が見える、しかし近づいてみると無い。心は本当にあるように見えるけど、科学で近づいてみると決して見つからないのです。

ないけど、あるように見えるのが心です。だからあまり心にとらわれすぎないことです。こころに思い浮かんだら素直にそれをやればいいし、悩みがでてきたら「ああ悩んでいるな」と思えばいい。あまり深く思い悩まないほうがいいのではないかと思っています。

しかし、人々の受け取り方はさまざま。私が「脳はなぜ心を作ったのか」を出版したあと、読者から三つの反応がありました。一つ目は「そんなの間違いである。リベットや前野の研究のやりかたが悪い。やはり自由意志が最初にあるはずだ」という意見。二つ目は「そんな気持ちの悪いことを言うな。心がないなんて絶望じゃないか。ニヒリズムだ、なんというマッドサイエンティストなんだ」という意見、三つめは私と同じで「気が楽になりました。どんなことでも気にしないで、気楽に生きていけばいいとわかりました」という意見。この三通りに、ちょうど三分の一ずつ分れたのです。

 

 

この文章を読むと前野先生に前著も読みたくなりますね

 

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

 

 

 

私も「心や自我なんか最初から無い」と言われたら、そっちのほうが気が楽になりますね。

 

だって、もともと無いのですから、本当は問題にもならない

 

下手に暇だと、人間ロクなこと考えないです。

勝手に心を散らかすんでしょうね。

 

科学者が明かす心の話はとても面白いです。

 

なぜ、前野先生が「心は無い」という結論に至ったのか

詳しくは先生の本をお読み下さい。

 

お幸せでありますように

 

心の汚れを落とす  法話会より

法話では、お坊様が何度も「こころの汚れを落とす」という話をされてました。

 

悪行為をせずに善行為をすることも大事ですが、わざわざ善行為を意識していなくても、心の汚れに気づいて、心に付いた汚れを落とすことも大きな善行為だと思います。

 

お経にもあります。

「諸仏の教え」、第一偈の二行目に心の汚れを落とす、という記述がありました。

諸仏の教え

 

心の汚れについて、詳しい記述も見つけました、ご覧ください。

根本仏教講義、1.釈尊の根本的教え (9)心はこんなに汚れている (No9)

 

ちょっと引用しました。

例えば窓ガラスが汚れていて外の景色が見にくくなっていれば、だれでもすぐ窓を拭いて汚れを取るでしょう。机の上がきたなければティッシュなどで拭き取りますね。汗や垢で身体が汚れれば風呂に入って流し落とすでしょう。心も同じことなのです。心もやはり穢く汚れているのです。ただ、窓や机や自分の肉体の汚れは目で確かめられますからすぐ気がついて、汚れを落とすことができますが、心の汚れは目に見えないだけに気がつきにくいのです。でも、実は心こそイの一番にその汚れを落とさなければならない重要な人間の課題といっていいのです。

 

まずは全てを置いて、こころの汚れを落とせ、ということです。

 

心の汚れというのは、こころの中はグチャグチャ、エンドレスな妄想、感情のかき回し状態。

 

汚れを落とすということは、上記の状態をストップさせるということですね。

その方法はみなさまお調べ下さい。

調べて、実践するだけでも、かなりの善行為になりますね。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。