おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

「吉祥経 マンガラ スッタ」 飲酒を自制すること

またまた日常読誦経典「吉祥経 マンガラ スッタ」より

http://gotami.j-theravada.net/mangalasutta.pdf

 

マッジャパーナー チャ サンニャモー

 

協会の日常読誦経典

飲酒を自制すること

 

正田大観先生 「小部経典 第一巻」

(人を)酔わせる飲み物(酒類)から自制すること

 

水野弘元先生「南方仏教基本聖典

飲酒(おんじゅ)より自制し

 

木岡治美様 日常読誦経典 パーリ語ノート

酒を飲むことを自制すること

 

 

お釈迦様は「お酒は飲むな」とおっしゃってますね。

 

一番の理由は、理性を保つべき脳の働きを薬物であるアルコールが破懐してしまう、ということ。

 

私、お酒はやめましたけど、やばいなあ、というくらい飲んでました。

家族の眼が痛かったです。

 

アルコールは薬物なので、一種の薬物依存だったんでしょうけど、なんの助けも借りずにやめることができました。

 

家族と私の母親がほめてくれました。

 

あと、仕事の飲み会で(飲まないですが飲み会へ行くことができます)別の会社の方からお褒めの言葉をいただきました。

うれしかったです。

 

ストレス解消にお酒を飲むという方もいますが、解消にはなりませんよ

酔いから覚めたら、また同じです。

 

経験者が言うのですから、間違いないです。

 

「何が平和を壊すのか?」より抜粋

ストレス解消のために、疲れをなくすために酒を飲むと言われています。それも見事に外れた考え方です。実は酒でさらにストレスが溜まるし、身体が疲れてしまうのです。仏教的に生きれば仕事をしてもストレスは溜まらないので、それほど疲れない。親を敬い、目上の人を尊敬し、家族の面倒をきちんとみて、自分が知識と技術をちゃんと学んで、悪いことはまるっきりしない生活を送っていると「ああ、疲れた。今日は仕事が嫌でたまらんかった、酒でも飲まなきゃ」ということにはなりません。毎日、仕事が終わって酒に溺れる方々は、あまりにも苦労していると思います。一日中なんの楽しみもなさそうで、酒を飲める時間を楽しみにしている。一日中楽しんで生活するのはそれほど悪いことではありません。仏教はそれを勧めているのです。

 

 

今日一日の楽しみ、今日一日のフィニッシュがお酒、というのは、理由のない習慣で、勝手に自分が思い込んでいるだけの話かもしれません。

 

お酒がなくても、今日一日の生活は楽しめます。

仏教はお金がかかりませんし、身体にもいいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ずーっと持っている心

私の親戚に82歳のおばあさんがいるのですが、話し出すと、決まって、亡くなった夫の悪口になります、繰り返します。

 

「あのときは、あーー言われた、このときは、あーー言われた」

「あのときは、あーーされた、このときは、あーーされた」

 

口の悪い私は「もう、死んじまって、いないんだから、やめたら・・」

 

それでも、止みません。

 

怒りとか、憎しみの感情になるんでしょうけど、人間って、この手の感情をずーっと持ってますね。

 

ご本人は大切に持っているつもりはないかもしれませんが、いつまでも手放そうとしません。

 

人間は面白いです

楽しい思い出は当然大切にしますが、嫌な思い出も、なぜか、ずーっと持っています。

嫌な思い出の中で自分を見失わず、「あっ、今、自分は過去の嫌な思い出を引っ張り出してる」 と気づいたほうがいいみたいです。

 

仏教徒なら、どんな場合でも、相手を許さなければいけないので、許すと決めたら、後腐れなく許さなければいけません、だから、あとで愚痴は言いません。

 

仏教徒は、自分のために相手を許します

 

 

ブッダの智慧で答えます」 釈尊の教え・あなたとの対話より

【53】 慈悲の冥想について

 

抜粋

Q:「私の嫌いな人」に対して慈悲の冥想をすると、かえって腹が立ってくるのですが。

A:主観的に物事を見て、考えても解決はしません。主観は自分の好みですからね。
世の中で問題が解決できないのは、ひとりひとりが皆主観的だからなのです。自分の問題でも、他人の問題でも客観化すると、そこには自分も他人もないのです。あるのは、ただ『問題』だけ。そのように考えると答が出て来るのです。客観的に見れば、そこに解決方法がある、ということです。

 例えば誰かがケンカをしているとします。客観的に見ると「いくら相手が悪いといっても、あなた自身が怒りで悩み苦しむことは大変でしょう。相手のことには関係なく、静かな心をつくった方がいいのではありませんか」ということなんです。

 ケンカをして苦しんで、共感を求めて相談に来る人がいますが、僕だったらこう言うんですね。「あなたは相手に勝ちたいでしょ。だったら相手に対する怒りは捨てなさい」と。すると、「そんなことはできません。だって、あいつはああいうこともした、こういう悪いこともした」と怒るのです。そこで「あなたは結局、その人の操り人形になるのです。その人の意のままに怒らされたり悩まされたりしているのですから、あなたはもう、とっくに負けているのですよ」と。そして「向こうが何を言おうが、何をしようが、あっけらかんとして、きれいな心でニコニコしていれば、あなたの勝ちですよ。ですから怒りを捨てなさい」と言うのです。それが仏教的な言い方なんですね。

 難しいと思いますが、自分の心を育てて、しっかり物事を見られるようにするしかないんですね。だから、そのために、ヴィパッサナー冥想をやって、自分の心と体を客観的に見て下さいと言うのです。これは、『ある人間の研究』のようなものです。自分のことだけは外も中も観察できるのです。他人の中までは観察できません。

 今までは、欲と怒りしかわからないように教え込まれてきたのです。それを整理しないといけません。自分が刷り込まれている価値観、判断、知識はあまり当てにならないことを認識した方がいいのです。
 

Q:でもやはり、私を苦しめた人のために慈悲の冥想をすることは難しいです。

A:それに気づいていることはいいことなんですね。
しかし、嫌いな人がいることは、あなたにとって楽しいこと、幸せなことですか。嫌だと思う気持ち自体も自分の不幸でしょ。ですから本当は、相手を嫌いだと思う自分自身が、自分の不幸を作っているのです。

 何かで不快感を感じたら、その相手を好きになるよりは、イヤになる方がやさしいのです。でも、その人をイヤになったら自分が損をするばかりで、相手には全く関係ないのです。「あの人がイヤだな」と思うたびに自分自身が気分悪く、不愉快になって、自分の不幸を作ってしまうだけなんです。バカゲたことですし、論理的ではないでしょう。

 「あなたが幸せになりたいのなら、人のことを嫌いになるな」ということです。「敵を倒すな、悪い奴を許せ、というのはおかしいではないか」と言う人がいますが、そういう考え方に乗せられてしまったら、答が出てこなくなってしまうのです。

 人を嫌いになるのはとても簡単なのです。何の努力も要りません。
ですから我々は、いとも簡単に自分の不幸を作ってしまうのですね。心の安らぎをなくしてしまうのです。
だから要するに、「幸せになりたければしっかりしなさい」ということです。腰抜けで中途半端では、幸せになれるわけはないのです。幸せになるには、しっかりとした自信がないと幸せになれないんですね。相手の性格や言葉や行動が、自分にとっていくら都合悪くても、「人のことは嫌いにはなりません」と平気でいてください。なぜなら、人のことを嫌いになったら、その人のことを考える度に、自分が暗くなってしまいますからね。
 

 

 

 

「私の嫌いな生命も幸せでありますように」

 

口先で言うだけでなく、本気で、大真面目で。

 

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仕事 イコール 生きること

仕事というと会社の仕事を連想しますが、仕事=生きること です。

 

朝きちんと起きるのも仕事、顔洗うのも仕事、歯を磨くのも仕事、きちんと朝ごはんを食べるのも仕事、呼吸するのも仕事、赤ちゃんをあやすも仕事、赤ちゃんがお母さんに微笑みかけるのも仕事、赤ちゃんが泣くのも仕事、介護するのも仕事、介護される側も仕事があります、病気になっても仕事はあります、ゴミを出すのも仕事、家の掃除も仕事、子どもと遊ぶのも仕事、学校の勉強も仕事、お風呂そうじも仕事、友人との楽しい語らいも仕事、家族と一緒にいるのも仕事、子どもを育てるのも仕事。

 

どの仕事もとても大切、仕事に勝手な価値をつけるな、という話になります。

 

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

第4話

「お金を稼ぐ」ことだけが仕事ではない

 

赤ん坊だって、動物だって、昆虫だって、働いている

 

何のために働くのか。

そんな質問をたまに受けます。

しかし、私に言わせれば、そんなことを考えること自体、「病気」に冒されているようなもの。まったくおかしな話です。

仕事の持つ「本当の意味」を知らないから、そんなことで悩むのでしょうね。

多くの人は「働く=お金を稼ぐこと」、「仕事=商売」だと思っています。

毎日、会社に行って、上司から与えられた作業をする。そして給料をもらう。これが仕事だと思っています。

しかし、それが本当に仕事なのでしょうか?

 

そもそも「仕事」とは、そんな狭い意味のものではありません。

会社へ行って働く。

これもたしかに仕事ですが、家で洗濯や掃除をするのも、当然仕事。その他、生きるために行っている行為はすべて仕事です。

お金を稼ぐ行為だけが仕事だなんて、狭く、つまらない考えです。

 

動物だって、昆虫だって、もちろん仕事をしています。

ミミズが生きていくとき、誰かが食べ物を口に突っ込んでくれるでしょうか。

そんなこおとは絶対ありません。自分で働いて食べ物を探し、自分の力で食べなければ生きていけない。

 

これが、働くという行為の本来の意味です。

 

ですから「何のため?」という問いに無理矢理答えるとするなら、それは「生きる」ためです。

 

ところが人間は「働く」とか「仕事」」というものを、勝手にややこしくしています。

 

元来、仕事とは呼吸のようなもので、やらなければ生きていけない。ただそれだけのことです。

 

「何のために働くのか・」を改めて考えてみるなんて、ナンセンス。

そんなもの、いくら考えたって無駄なのです。

そんな悩みを持つ人は「なぜ、呼吸するのか?」「なぜ、食べるのか?」にもついても悩まなければならなくなります。

どう考えても、おかしな悩みでしょう?

人は生まれた瞬間から死ぬまで、一生休まず、働かなければいけません。

それが生きることだからです。

赤ちゃんは小さな足で蹴っ飛ばしたり、お母さんの髪の毛を引っ張ったりして、必死に自己主張しますね。

それこそが、赤ちゃんの生きるための仕事だからです。

どんな人にも、生きるための仕事があります。

そして、その仕事には、休みも理由もありません。

「なんのために働くのか?」と思い悩んでいる人は、何よりもまず、「仕事の本当の意味」を理解してください。

お金を稼ぐというのは、「本当の仕事」のうちのほんの一部。

物事の一部を見て、それが全てだと思うのは、大きな間違いですよ。

抜粋終わり

 

たまに、失敗する仕事もありますが、くよくよしないのが仏教徒

 

 

 

今日は簡易ウポーサタ

簡易ウポーサタがありました。

 

お坊様からは、メッタ(慈悲)の大切さの法要と、みんなで「慈悲」についてディスカッションがありました。

 

メッタバーワナーは、ティピタカにその文言があるらしいのですが、載っている場所を聞いたのですが、メモを取らなかったので忘れてしまいました。

ティピタカ(三蔵)とても大事なお経です

パーリ仏典 - Wikipedia

 

お経を唱えて、法話を聞いて、偉いお坊様の法話ビデオ見て、ディスカッションして、食事をして

近況を語り合って、いい一日でした。

 

今回は写真を多めに

 

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吉祥経 マンガラ スッタ エンギ担ぎー幸福な生き方

 吉祥経(マンガラ スッタ)は好きなお経のひとつです。

下記に全文が掲載されています。

http://gotami.j-theravada.net/mangalasutta.pdf

 

お釈迦様が在家に具体的に、幸福な生き方を示されています。

 

ここに「仕事 生計」に関する記述があります

パーリー語で「アナークラー チャ カンマンター」という部分です。 

いろんな訳文を見てみます。

 

混乱のない仕事をすること

日本テーラワーダ仏教協会の日常読誦経典」」より

 

諸々の生業が混乱なきこと

「小部経典 第一巻 正田大観先生」

 

秩序ある仕事

「南方仏教基本聖典 水野弘元先生」

 

混乱のない仕事をすること

「「日常読誦経典 パーリー語ノート 木岡治美氏」

 

 

この部分に関するスマナサーラ長老のコメントもあります

「なにが平和を壊すのか?」より

多くの人は仕事のことで悩み苦しみを持っています。なんとか仕事を頑張っているが、疲れ果てて家のことや社会に関することなど何一つできない、これも不幸の原因になりますから、お釈迦様は「複雑でない仕事をするように」と説くのです。簡単な仕事といっても、人それぞれに違います。ある人に簡単な仕事が別な人にはとても複雑で全くできないものです。人が自分にとって簡単な仕事を選んで働くならば、仕事の質に自分自身とても満足できて、他人にも役に立つ仕事になる、そうなれば、仕事は疲れるものではなく、楽しい行為になる、自分がこなすべき他の業務も果たせる余裕が出てくるのです

 

仕事は混乱なく正確にしなければならないけど、複雑な仕事を正確にやるのは大変です、仕事を複雑にしないで、複雑な仕事を簡単にする工夫、その仕事を楽しんで行う工夫。

そうすれば、余裕も出てきて、悩んだり、疲れ果てるということもなくなる。

ましてや間違えることもなくなる。

ということでしょうか?

 

ここでいう仕事は生業のことかもしれませんが、長老の本では、「仕事=生きること」「働くこと=生きること」と区別はしていません。

 

普段の生活でも「混乱なきよう」送ったほうがいいです。

 

下記の本に吉祥経の詳しい解説が出ていました。 

 

貯めることで暗くなるー物惜しみの性格とは? チエリさんの「ブッダ ラボ」より

私、ついつい貯めてしまうほうかもしれません、たぶん病気です。

 

使うより貯めてしまう、家内は上手に使うほうだと思います、だから、お金やモロモロのことは家内に任せています。

 

でも、本当は使うことが大事

 

貯めても、喜びは少ないですね、貯めるというのは、自分のためだけ、もしくは、自分の身の回りの人々のため、ぐらいでしょうか。喜びに広がりがありませんね。

広がらない、広がらない・・・。

 

チエリさんの「ブッダ ラボ」より

貯めることで暗くなる - 物惜しみの性格とは?(1)

(1)~(9)まであります。

 

以下、抜粋

それで、貯めることに喜びはそんなに出て来ないんです。

たとえば、貯金の数字が増えていく。それを隠れて見る。「うん(・∀・)ニヤニヤ)」と、それだけですね。

それからさらにそれを隠さなくちゃいけない。友達には自分に何千万円も貯金があるとばれてはマズいんです。自分の子供たちにもそれを知っちゃうと、なんとかして取り上げようとします。だから隠さなくちゃいかんですね。

ふつうに誰かが「どうですか、どこか遊びにでも行こうか」と言ったら、「これはおそらくわたしの金をねらっているな……」と思ってしまう。その人はふつうに誘っているだけなのにね。つまらないからどこかに行こうよと、誘っているだけなのに。

中略

楽しみ、幸福もあるんですよ、貯めたことに。それが貯めるときじゃなくて、貯めたものを使うときなんです。

そのとき、ムチャクチャ幸せなんです。

 

貯金をする。ドンドン暗くなるだけで。でもそれで、外国旅行でもしちゃう。結構気持ちいいんですよ。分割払いでもなくドカーンとお金を払って、「部屋は何人部屋にしますか?」と聞かれれば「わたしは一人部屋でよろしいんですよ」とかね。そうやって結構たのしめるんですよ。

 

金があってよかったというのは使うことにあります。

 

抜粋終わり

 

 

 このあと、説法は、捨てることに言及して、捨てまくる話になりますが、

 「命の執着も捨てる」ところまで行きます。詳しくは「ブッダ ラボ」をご覧下さい。

 

まずはわが身にしみついた物惜しみの病気を実践治療しないとですね。

 

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「素直である」とは

キンドルになりますが「怒りの無条件降伏」が3月13日まで無料でダウンロードできます、さきほど無料でいただきました、ありがとうございます。

 

中部経典 第21「ノコギリのたとえ」の和訳と解説になります

 

パーリ語の原文は pali text society,oxford,1993

パーリ聖典協会 - Wikipedia

当たり前ですが、きちんとした原文からの和訳になります。

 

一部 抜粋します

「素直」について

 

比丘たちよ、私は衣食住薬、生活必需品を得るために素直になっていることで、(真の)素直だと説きません。それはなぜでしょう。比丘たちよ、その比丘は、衣食住薬、生活必需品を得られないことになるならば、素直にならず、素直さに至らないのです。比丘たちよ、しかしながら、まさに、真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になり、素直さに至るのであるならば、私は、彼を、「素直である」と説きます。比丘たちよ、ですから、・・・私たちは真理を尊び、真理を重んじ、真理を敬い、素直になろう、素直さに至る者となろう・・・。と、比丘たちよ、あなたたちは、まさしくこのように戒めねばなりません。

 

解説一部抜粋

仏道に入った人が偽善的な素直さで行儀よく振る舞って穏やかな生き方をしても、必ず問題が起きるのです。信仰の厚い信者に恵まれて生活必需品に困ることなく楽に生活できるようになると、自分の生活水準を維持したくなります。そうなると、信者が喜ぶような、皆が感動するような生き方をしようとするのです。何かこれという悪いことをしたかというと何もしていないですが、その比丘に心の成長がないことも確かなのです。彼はお布施に恵まれずに不幸にならない限り心の汚れに気づくことはないでしょう。大きなお寺を任されて、その「偉い立場」を維持するために、行儀よく振る舞う場合もあります。これらの場合は、比丘が出家の真の目的を忘れているのです。真の目的は解脱することなのに、「信者さんの心を喜ばすこと、またはお寺を維持管理をすること」を目的にしているのです。ブッダの教えと実践を重んじるどころか、それは二の次になるのです。

 

「人が喜ぶことはなんでもやる」ということになって、出家なのに、祈祷も占いも、他の世俗儀礼も行うことになるのです。そうなると個人が破戒されるだけでなく、仏教そのものも堕落していくのです。

 

どんなお寺を任されても、どんなに裕福な信者に恵まれても、仏教の真の目的からは決して脱線してはいけないのです。それは、真理を重んじて、真理を敬って、真理のために素直になることです。真理というのはブッダの教えです。また、その教えを体験するための仏道です、解脱をして苦しみを乗り越えることです、解脱するために、、素直に行儀よく生活する人は、真に素直な人です。その人は、お布施があってもなくても混乱しないのです。他人に尊敬されなくても気にしないのです。ひたすら真理を目指して、解脱を目指して努力するのです。そのために素直になるのです、ブッダのアドバイスに耳を傾けるのです。

 

 

ほとんどのお寺は妻帯、お酒OK、僧侶というよりも僧職で、職業のひとつですね、我々在家と同じです、在家ですから、お金がなくなると心配しますし、檀家さん(取引先?)をご機嫌を損ねないようにします。

 

僧侶といっても我々在家と同じだから仕方ないのですが・・・

でも、どんどん仏教から離れていく感じがしますね。

 

それにしても、無料はありがたいです。

 

平成29年3月13日まで無料でダウンロードできます