おっさんの仏教メモ

引っ越ししました。

お布施を受ける人々のランク

せっかくのお布施だから、まじめなお坊様、お寺様に、さしあげたい。

 

でも、「先祖代々、このお寺様だから・・」とか、「このお寺様にお墓があるから・・」とか、「この宗教はとてもいいものだから」とか「本山では何やってるのか、わからない」とか「お坊様が信用できない」とか「やたらお金を要求する」とか、悩んでいる方も多いのではないでしょうか?

 

この疑問に答えてくれたのが、大好きな藤本晃先生の著書「お布施ってなに?」です

お布施を受ける人々のランクについての記述があります、上位ほど功徳が大きいです。

 

お釈迦様が示した(中部経典・第142経「施分別経」)ランクを藤本先生が解説しています。

 

お布施を受ける人々のランク(団体の部)

 

ブッダを上首とする(比丘と比丘尼)の両サンガ

 

如来が般涅槃されたあとの両サンガ

 

比丘サンガ

 

比丘尼サンガ

 

「これだけの(人数)の比丘と比丘尼をわたしのためにサンガから指定してください」」と、人数を限定するお布施

 

「これだけの比丘をわたしのためにサンガから指定してください」と人数を限定するお布施

 

「これだけの比丘尼をわたしのためにサンガから指定してください」と人数を限定するお布施

 

 

 

以上の7つで終わりです。

 

これでは、私の親が大事にしている先祖代々からお参りしている宗祖仏教がランクインしていません、困ってしまいます。

 

でもお釈迦様の話はこれで終わりません。

 

お布施を受ける人々のランク(団体の部・敗者復活戦)

 

お布施を受ける人々のランク・団体の部には、実は番外編があります。7つのランクを全部お話された後で、お釈迦様は最後のこうおっしゃいます。

「将来には、首に袈裟の布きれを掛けた、名ばかりの、破戒の悪法者たちが現れるはずです。その破戒者のサンガを指定してお布施がなされても、サンガに帰属するお布施の功徳は、無数、無量だと、わたしは言います。どのような根拠によっても、個人にたいするお布施がサンガに帰属するお布施より大きな果報をもたらすとは、私は言いません」

なんと恐るべき、お釈迦様の洞察力でしょう。将来にかならず現れる、袈裟片を首に掛ける名ばかりの破戒の悪法者とは、まさに現代日本のお坊様がたのことでしょう。「輪袈裟」という名の、首に掛けるだけでよい袈裟をちゃんと身に着けています、というか、それさえも法要儀式のときだけに掛けるだけで普段は平服ですから、お釈迦様の予言よりももっと悪い状況になっています。そして破戒していますから、お釈迦様ももう、比丘サンガ、比丘尼サンガのように厳密に分けてもおられません。いっしょくたにして、仏滅後の「破戒者のサンガ」です。

 

 

 

藤本先生は、破戒・悪法のサンガであっても、サンガであるからには「仏法」が探せば必ずあります、倉庫の奥底でほこりをかぶっていようとも、サンガには大切に保管されているのです。と述べて、さらに「このニセ坊主にお布施する」という気持ちを変えて、サンガのはしくれとしてお坊様、あんたにあげるんじゃないから、お釈迦様から続いてきたサンガの代表としてしっかり受け取ってください。と

 そして、受け取ったお坊様はお布施をどのように使おうとも、お坊様個人の行為ですから、その結果はお坊様に現れます。

お布施する側のこころがきちんとしていれば最大の功徳が得られるようにお布施していますので、サンガにお布施するだけで大安心なのです、と述べています。

 

あー、すっきりしました、親が大事にしている日本の宗祖仏教とも仲良く付き合えそうです。

藤本先生 ありがとうございました。

お布施ってなに?―経典に学ぶお布施の話

お布施ってなに?―経典に学ぶお布施の話

 

 

 

 

せっかくのお布施だから お布施の使い道について

お釈迦様の時代には、お釈迦様の出家比丘、比丘尼のサンガ(教団)に、在家はポンとお布施をすれば良かったのですが、現代社会は、経済社会、や法律、宗教法人によって、いろいろなやりとりが複雑になってます。

 

自分の心を高めるためにお布施をしたいのだけど、お坊さんも欲でドロドロで、本山のことも知らないし、使い道もわからない、ましてや宗教法人の財務諸表なんて見たことない、そういう方がほとんどではないでしょうか?

 

お布施先のことがきちんとわからないと、自分のお布施がもったいない気持ちになります(本当はこの気持ちもNGなのですが・・)

 

宗教法人を持っている団体は、毎年、所轄庁に下記の書類を提出しなければなりません。

 

①役員名簿

②財産目録

③収支計算書

④賃借対照表

⑤境内建物に関する書類

⓺事業に関する書類

 

運営規則→毎年提出しなくてもいいですが、最初に認証を受ける際に必要です。

 

以上は、宗教法人の事務所に備え付けの書類なので、信者が「閲覧したい」という請求があったら見せなければいけません。

 

宗教法人法 第25条

宗教法人は、信者その他の利害関係人であって前項の規定により当該宗教法人の事務所に備えられた同項各号に掲げる書類又は帳簿を閲覧することについて正当な利益があり、かつ、その閲覧の請求が不当な目的によるものではないと、認められる者から請求があったときは、これを閲覧させなければならない。

 普通、なにも悪いことしてなければ、別に信者ではなくても、誰にも見せていいでしょう。

 

1年に1回は信者に収支報告をしたほうがいいのではないでしょうか?

 

せめて、お布施の使い道がわかるのではないでしょうか?

 

基本的にみんなからお金を集めているのですから、透明性は当たり前です。

 

 

おっさんが会員になっている「日本テーラーワーダ仏教協会」では、お布施の使い道を指定できます。

協会へのお布施、使途の指定

http://www.j-theravada.net/201612_info_daana.pdf

当たり前です。

 

1年に1回に収支報告があります。

当たり前です。

 

多様化する経済、いろいろな法律等で、複雑になると、調べることも多くなります、

でも調べることで「あーー、何に使われるかわからない・・もったいない」という気持ちを避けることができそうです。

 

「この宗教は良いものだから」と人の薦めを無自覚に受けるのではなく、ご自分できちんと調べることをお勧めします。

 

以上が、現代社会のおける在家の振る舞いですが、お釈迦様は現代のお坊様の有り様と、お布施を予想してました。

すごい、すごすぎる。

 

それは次回で。

 

参考

文化庁 宗教法人の管理運営について

懇切丁寧なわかりやすいHPです

 

 

文化庁 宗教法人運営のガイドブック PDF

これも懇切丁寧、すごくわかりやすい、日本政府、すごいです。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/shukyohojin/kanri/pdf/h22_shukyohojin_unei_guidebook.pdf

 

 

宗教は政教分離が基本

 

宗教法人は、宗教的事項と世俗的事項の2面の機能がありますが、政府による宗教法人法は世俗的事項を規定しています、基本的に会社運営に似ています。

 

お布施ってなんのためにするのですか?(2) 幸福になる権利

「仕事で一番大切なこと」より引用

 

お布施って、なんのためにするのですか?

 

なぜ、私たちが収入を得られるのかというと、私たちが社会に対して何か役立つことをしているからです。私たちがしていることが社会のためになっていないなら、誰もお金はくれません。

つまり仕事というのは「人の役に立つ」というのが定義なのです。他の生命に何かを与えなければ、仕事にならないわけです。

ある人が自分の部屋にこもっていろいろな作品を作るとします。それだけでは仕事にならないのです。でも、別のある人がその作品を見て、

「これはすごい!」

と思うなら、その人に感動を与えていることになります。そして、その人が作品を購入してくれた時点ではじめて仕事になるのです。

その人が芸術家かどうかは、社会が決めることです。大学教授や批評家が決めるのではなく、消費者が決めるのです。

仕事というのは、人の役に立つことなのです。人の役に立ったら、お返しは必ずあります。これは法則です。ということは、誰かの役に立てば立つほど自分が恵まれる権利を得ることになります。

 

誰かの役に立っただけでもよいですから、それならもっとたくさんの生命の役に立ったらどうでしょう。お金は得られないかもしれませんが、自分が恵まれる権利は得られます。そういう人は否応なしに幸福になってしまいます。

ボランティア活動にしても、例えば、公園に行ってゴミを拾っても、それで、誰が幸福になるかわかりません。しかし、人々が使う公園をきれいにしたことは紛れもない事実です。お金では計算できないけれど、その分確かに誰かの役に立ったのです。その貢献した分、自分が恵まれる権利は確実に得たことになります。

このように、他の生命の役に立つことだけをするというのが、仏教で言う「布施」ということなのです。お金で計算しない「布施」ということは、自分の幸福を確定する、世の中の荒波に翻弄されないようにする道なのです。「布施」をする人はピンチになっても、自分が獲得してきた権利が作動して、幸福にしてくれます、これこそ、本当に価値のある投資といえるかもしれません。

他の宗教では、神様に恵まれるという話がありますね。砂漠で遭難していて、偶然通りがかった人に助けられる。それを、神様の送ってくれた人だとか、馬鹿なことを言うのですね。

冷静に考えてみれば、これは恐ろしい考えですよ。どうして神様はその人だけ助けたのでしょう。ひとりの人が神様のお恵みで助かっても、その他の何百万人もの人々が苦しみ、死んでいく。

本人は、その残酷な考えに無自覚なのですね。

自分だけ助かったのは、自分が選ばれた存在だったというわけです。そんな屁理屈ばかりで世の中が動いているわけですから、あきれたものです。

これは明らかに間違った思考で、本当は私たちひとりひとりが、幸福になる権利を自分で獲得するのです。それは不思議なことではなく、何かを与えることによって、別の何かを得ているのです。そこを外すと、なに一つ成り立ちません。

仏教の出家組織はお金そのものに反対なので、なんでも無償でやる世界です。説法も冥想を教えることも無料です。対価を要求すれば、ブッダの教えに反することになります。

そのように完全に無料で法施(教えを説くこと)をしていても、人間ですから食べていかねばなりません。そのために、出家者の身の回りのお世話をする人々はものすごく価値のある仕事をしているのです。

なぜなら出家者はそのお世話されたものを食べて、法施することにより、人々の苦しみを取り除き、幸福へと導くからです。

これが「法施」の意味です。まったく不思議なものではなく、極めて合理的なものなのですね。しかし、日本では仏教にたいする理解が乏しいですし、それを利用した悪い集団が金儲けのために「布施」を集めることがあるので、イメージが悪いかもしれもしれません。ああいうものは「布施」ではなく強盗と言うのです。人の弱みにつけ込んで、お金を巻き上げているのですから。

しかし寄付をする先がよい仕事をしているなら、それは「布施」と言ってよいのです。

もし「布施」をしたくないと言うなら、有限なほんのわずかな幸福の中でしか生きるしかありません。アルバイトをしても、その時給分しか得られないように。

 

みなさんは真面目に頑張っているのだから、その権利として収入を得ています。しかし、一人の人間に必要なものは、それほど多くありません。当然、お金は余ります。一時期もてはやされたいたIT長者とか、才能のある人は、すごく儲かることもあるでしょう。でも、必要なものはたかが知れています。大富豪であっても、欲しいものを全部買うのは無理です。

ですから必要なものだけで生活していると、お金が貯まるのです。しかし、その財産、資源というのは自分のものではありません。一時的な権利を、受け取っただけのことなのです、このことをよく覚えておいて下さい。

後略

 

そういえば、協会主催の法話会、初心者冥想指導、自主冥想会で、お金を請求されたことはありません。

 

使い道も明かさないで、具体的なお金を要求したり、財産を寄付をすることで、その地位が上がるとか、いう宗教団体があったら全て偽物ですよ。ただ、営利追及団体としてはホンモノですよ。

営利団体はもう宗教法人ではないので、免税の特権を返納して、税金を払っていただきたいです。

 

 

 

おっさんは、仏教を勉強するにつれて、お布施の意味がだんだんわかってきたので、自分の心のために、そのつど「喜捨」という形でしています。

 

よく考えて、善行為に沿ったお布施はよいことです、当然、よい結果を導きます。

お布施は本当は合理的で当たり前な行為です。

 

 

引用した本は、絶版になったみたいですが、珍しくマガジンハウスからです。

アマゾンで古本が手に入るかもしれません。

とてもしゃれたイラストが好きです。

 

仕事でいちばん大切なこと

仕事でいちばん大切なこと

 

 

 

キンドルで読むことができます。

テキストデータのみで、イラストはありませんが・・。

 

仕事でいちばん大切なこと
 

 

 

お布施ってなんのためにするのですか?(1)みんなと仲良くする方法?

日本文化、いろいろな経済活動、カネカネにまみれると、「お布施」という言葉に身構えてしまいますね。

 

お寺に出すお金のことでしょ?

 

お坊さまにあげるお金のことでしょ?

 

戒名のお礼?

 

お葬式のお礼?

 

法事のお礼?

 

具体的な金額を提示して、お布施を請求するお坊様もいるとか・・・。

 

日本のお坊様は、我々と同じ在家で、僧侶というより僧職をされているので、生計を維持するために、かかった費用をお布施という名目で請求するのでしょうね。

 

経済活動の一翼を担っていますね。

 

ここまで書いて、仏教徒であるわたしは悲しくなってきた。

「単なる個人の生計だ! なんの役にも立ってないぞ! みんなの役に立ってないぞ!」

 

気を取りなおして

 

スマナサーラ長老にしても、テーラワーダ仏教のお坊様は、経済活動は一切禁止されているので、在家の方々が支えなければいけないです。

 

お釈迦様とお布施について、藤本先生の本を引用します。

 

「お布施ってなに?」経典に学ぶお布施のお話

はじめに

「どうすれば、みんなと仲良くなれるでしょうか?」と尋ねた天人に、お釈迦様はいとも簡単に、「あげれば、みんなと仲良くなれます」(『相応部』1巻373ページ)と答えておられます。

奪おうとしたり、物惜しみしたりせず、ただ、あげたり、してあげたりするだけで、みんなが仲良くなれます。お布施は仏教徒だけでなく、すべての生命が仲良く生きる基本なのです。

 

 

 べつに、お金やモノじゃなくてもいいです。

役に立つことをしてあげれば、誰でもみんなと仲良くなれます。

これが、お布施の基本の基本。

 

お釈迦様とお布施について、もう少し調べます。

 

お布施ってなに?―経典に学ぶお布施の話

お布施ってなに?―経典に学ぶお布施の話

 

 

 

 

「怠け」を克服する(2)30分、10分、5分でも長い!

誓教寺様の施本『「怠け」を克服する』

 

せっかくなので、気になるところを自分なりに考えました。

 

ピリオド(期間)を決めて、物事に取り組むって、怠けを防ぐ、良いトレーニングになりそうですね。

 

仕事でも、これから30分とか、これから10分とか、区切って、そのことだけに集中する、その間は怠けたことにはなりませんね。

 

 

 単純なことなのですが、なぜか目の前のことをしないで他のことしてる・・。

 

例えば、この文章はパソコンで作っていますが、ちょっと調べるつもりが、いつの間にか、さまようネットサーファーになったりとか・・・。

 

家の者に頼まれごとされて中断するとか・・。

 

大事なことを思い出して、そちらを始めてしまうとか・・。

 

なにかしら、最後までやらずに中断することがあります。

 

この本を読んでから、机に時計を置いて、「これから30分はこれをやろう、最後までやろう、最後までやったら、次をやろう」と決めてやることにしています。

 

黙っていても、やるべきことはじゃんじゃん来ますので、せめて時間を決めて「やる」ということで・・。

 

でも、時間内に終わらないこともあります、そのときは「やり始めたことに意義がある、どうせパソコンだから、やっとところがわかる」ということで、時間が来たら後腐れなく終了します、「終わらなかった・・・・」とウジウジするほうが心に悪いですから、たかが仕事です。ほんと弱いおっさんです。

 

 

長老がおっしゃるには、30分も、10分も、5分も長いとのことです。

1分でやらなければいけません

 

「くじけないこと」より引用

 

時間との戦いでできること

「忙しくて、忙しくて」としきりに言う人がいます。その人は、「あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃ、」と慌ただしそうです。

慌ただしい人には、片づけなくてはいけない大量の仕事群が存在するのです。あれもこれもやらなくてはいけないと、常に呟いているのです。なぜ「やらなくちゃいけない」と口にするのかというと、「まだやっていない」からに他なりません。そしてまた、その人が気づかないのは、やらなくてはいけないことは「これからもやらない」ということです。

ご飯を作らなくちゃいけない、その前に買い物しなくちゃいけない、その前に献立を考えなくちゃいけない、子どもの面倒も見なくちゃいけない、仕事を片付けなくちゃいけない、会社にも行かなくちゃいけない、中略・・といった「しなければいけないこと」が頭の中で激しく渦を巻いているのです。けっこう忙しいのです。暇がないのです。

しかし、これは、本当のことではないのです。すべていい加減な妄想なのです。立派な妄想家であって、現実主義者ではないのです。現実主義者であるならば、このように考えるはずです。「やらなくてはいけない」ことを妄想するならば、キリがないほどいくらでもあります。しかし実際、自分は今の瞬間だけ現実的に生きているのです。何をするにも、今の瞬間にしなくてはいけないのです。今の1分より先に1分は存在しない、後に1分も存在しないのです。具体的に存在する、いまの1分で、やるべきことをやるしかないのです。それを行わないで、過去のことでできなかったことに悩んだり、将来に関してやらなくてはいけないことを妄想したりすると、今の時間は無駄になります。今の時間を無駄にする人は、人生そのものを無駄にするのです。

 

 1分ですね、1分です。

 

結局、施本から下記の本に飛んでしまいました・・。

 

 

 

「怠け」を克服する(1)へびに噛まれたお坊さん 「別に。だから何?」

施本をいただきました。

山口県下松市 誓教寺様に新設された会館「仏教なんでもセンター」の落慶のお祝いに発行されました。

seikyoji.jimdo.com

 

藤本先生、誓教寺様、おめでとうございます。

施本ありがとうございます。

 

 

 

施本は『「怠け」を克服する』

平成29年1月29日に、兵庫県三田市のマーヤデーヴィー精舎で行われた説法が冊子になりました。

youtubeで説法を見ることができます。

mayadevi.hatenablog.com

 

 

B6判 38ページのかわいい本です

でも内容は非常に濃いです。

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内容です

 

「なんとなく知っているは」本当は「知っていない」

 

言葉には定義が必要

 

「頑張りなさい」は空っぽの言葉

 

「怠け」の定義

 

「怠けないこと」と「頑張ること」は同じ意味にあらず

 

時間を区切ることが秘訣

 

「怠け」と闘うことは「頑張る」ことにあらず

 

「生きることは苦である」という真理をわたしたちは知っている?

 

生きることは苦を変える(苦しい状態を変える)作業

 

「苦しみはイヤ」それが「怠け」

 

「怠け」の誘惑で地獄が出現する

 

「生きることはありがたい」とい論理なき論理

 

無知から無知へ

 

「怠け」と存在は不可分

 

ありのままに直面することが道

 

「苦」に直面すれば、選択なし、迷いなし

 

生きることはいつも矛盾

 

「生きていれば何かいいことが・・・」という推測

 

何を選んでも、あるのは「苦」

 

「苦」に直面すると智慧が現れる

 

蛇に噛まれたお坊さん

 

「苦」に直面すること=「怠け」の根治=解脱

 

 

 

 

 

気になるところを引用します 

「怠け」の定義

自分のやるべきことをやらずにサボることです。

 

「怠けないこと」と「頑張ること」は同じ意味ではありません。

 

怠けないようにするための簡単なトレーニングは、時間を区切ってやってみること、例えば子どもたちが、9時~10時までは遊ぶ時間だからゲームをやるぞ、と、自分で決めたならば、その時間にゲームをして遊べばいいのです。

 

時間にピリオドを入れる、人生をピリオド(期間)で切らなくていけない。

 

私たちの人生には、常にスケジュールがあって、プログラムがあって、この日はこんなことをやるということが決まっているのです。自分で決めたこと、親が決めたこと、会社の社長が決めたこと、・・・なんでもいいのですが、決められたこと、決まっていることがある。それをその時間の中でやるならば、怠けてはいないのです。

 

やっていて、なんだか難しくてやる気が出ない場合は、そこで頑張らなくてはいけないのです、そこで、頑張りの出番になります。」

 

 

「怠けない」とは、「今はこれをやる時間だからこれをやる」

「ああ、面倒くさいな」という気持ちが出てきたところで「ま、出来るところまで頑張ってみます」と頑張る。これで精神的ストレスなしに、「あー終わった」とやり遂げられます。

 

あのやり遂げた気持ちが幸福なのです。なにか仕事が終わったとき、そこに幸福があるのです。幸福というなにか変なものが別にあるのではなくて、「終わった」「やった」という充実感こそが、幸福の正体なのです。

 

生きることは苦です、苦がイヤでその状況をいろいろ変えようとする、それも「怠け」

だから必然的に「怠け」が出てきます、怠けも苦ですね。

 

仏道は、苦から逃げなさい、ではなく直面しなさい、という教えです、向き合ってみなさい、観察しなさい、ということです。

 

 

蛇に噛まれたお坊さん

 

経典には、蛇に噛まれて亡くなった長老の話が記録されています。

悟りに達していたあるお坊さんが、どこかの洞窟の中で生活していたのです。阿羅漢は自然破壊を一切しないので、家の中をピカピカ掃除して・・・ということはありません。自然の中にそのままいるので、誰かが住んでいることさえわからない。

「こちらに人間が住んでいるようだ」とわかるなら、その分、自然を破壊しているのです。もちろん、グループで住む場合には、それなりに環境を整理整頓しますが、ひとりで住む場合にはそれもしません。自分が住んでいるところに行く道はない。歩く道を作ったりすることも、厳密には自然破壊ですから。行きたければ獣道をそのまま自分も歩く。枝一本さえも折りません。

そのお坊さんが住んでいる洞窟の中にはいろいろな動物もいたのですが、その中にある特別な蛇がいました。その蛇には牙ではなく、身体に毒を持っているのです。その蛇は獲物を捕るとき、ただ跳んで身体をぶつけるだけ。たとえば、その蛇が跳んで蛙の身体に触れたら、蛙さんはそれだけで死んでしまうのです。まず身体が動かなくなって、細胞が分解されて血管が破裂して死に至る。蛇はその前に食べてしまうのです。

おなかの中でボカンと破裂して溶けてしまいますから、蛇にとっては楽ですね。

現代にもそういう蛇がいるかどうか調べたことはありませんが、経典に出てくる蛇のエピソードです。この蛇がちょこちょこ動いたところで、お坊さんの身体の上に落ちてしまったのです。

蛇はお坊さんを食べるわけではないので、たまたま落ちて触れてしまっただけです。

お坊さんはその瞬間「あ、あの蛇か。これで自分の命は終わりです」とわかったのです。

そこでお坊さんはすぐに、近くにいた何人かの比丘たちを呼んだのです。すさまじい痛みを感じていたはずです。それでも声が出せたので、比丘たちを呼んで「今寝ているこの状態で、私をすぐに外に出してください」とおっしゃったのです。

比丘たちは状況がよく呑み込めないまま、でも長老のおっしゃることなので、急いで外に出したのです。

なぜ、外へ運ばせたかというと、血管がパチパチと破裂するからです。身体にはいっぱいの血液がありますから、その場所がひどく汚れてしまうのですね。自分がいた洞窟で他のお坊さんも生活できるようにと、急いで外に運ばせたのです。

それから、みんなの目の前で亡くなられたのです。本人には悩みも悲しみもなにもなかったのです。「ああ、そういうことか」で終わり。 

 

 

ただ、どんな出来事にも直面するだけです。

 

そこには、悩みはないし、怒りもないし、欲もないし、執着もないし、自我もないし、怠けもないし。

 

いろんなことを教えてくれるエピソードです。

 

仏教徒は、直面して、ありのまま観て、「別に。だから何?」です。

 

 

箭経 サッラスッタ 死の見かた(6)最後は「悟り」で終了

箭経は、最後は、「悟り、解脱、涅槃、禅定」(すべて同義の意味でお願いします)で終了します。

 

仏教の目的は「解脱」になります。

ですから、経典の「オチ」も「解脱」になります。

 

解脱の境地は、考えてはいけないことの一つになってます。

考えてもいいんでしょうけど、考えてもキリがないので、やめときなさい、とお釈迦様はおっしゃってます。

 

『業  / 苦 / 死 』より引用

考えてはいけないこと4つ

 

ブッダたちの、ブッダとは何ですかという領域・境地のこと(ブッダとはこういうものだというブッダに対するすべてのこと)は、考えても考えても終わりません。考える人の心は狂気になります。

 

禅定の経験に入っている修行者の禅定は何かということは、人間には考えることは不可能です。考えてはならない、考える人の心は狂気になります。

 

業と過去は考えても終わりがない。考える人の心は狂気に陥ってしまいます。

 

世間の考察も思考し尽くせるものではありません。思考する人の心は狂気に陥ってしまいます。

 

つまり考えてはいけないこと四つというのは、「ブッダの境地」「禅定」「業」「世間」だということです。

ブッダの境地も、禅定も、一定の人間の領域を超えています。言葉で考えたり説明できる範囲のことではないのです。時空を超えていますから、考えても考えきれないのです。また四番目の「世間」というのは、現代の一般的な「世間」とは少し言葉の意味合いが違っていて、「生命」「宇宙」と同義です。

 

 

 

 仏教徒なら、「悟り」を目的として、冥想や勉強をして、日々の生活を営なければなりません、ただ翻って、私の生活はどうか?というと、悟りには程遠い感じがします。

 

本当に真剣に悟りを得ようと思っているのか?

 

冥想するのも、悟りのためでなく、日常の心の安定を得たいために、やっているのではないか?

 

仏教を勉強するのも、悟るためでなはくて、仕事とか人間関係に悩むことなく、日常をスムースに過ごしたいために、勉強しているのではないか?

 

こんなことでは、お釈迦様に「愚か者」と言われそうです。

 

気を取りなおして、悟りの境地はわからないですが、悟りを得るまでの段階は詳しい説明があります。

 

最初の段階くらいは行きたいなあ、という気持ちになります。

 

詳しくは、藤本晃先生の「悟りの階梯」をご覧ください。

悟りの階梯

 

本もあります

 

悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造 (サンガ新書)

悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造 (サンガ新書)

 

今も昔も「私は悟りを得た」とか、「私は解脱した」とか「私は阿羅漢だ」とか「私はブッダだ」とか言う人がいますが、この本を読むと、どれも怪しいというか、嘘だとはっきりわかります。 

 

かなり回り道をしましたが、箭経に戻ります

 

593

箭を引き抜き、涼やかになり、こころのやすらぎを得る。

一切の慈しみを乗り越えて、悩みなき寂静に達する。

 

 「悟りなさい」で箭経は終了します。

 

ゴールは涅槃

お釈迦様がおっしゃっているのはそのことなのです。人間には短い時間しか与えられていないnだから、ゴールを目指して頑張ってください、と涅槃がゴールなのです。

自分に縁ある誰かの死に足を引っ張られて自己破壊していたら話になりません。家が壊れたといって自己破壊していたら、商売がうまくいかないといって自殺していたら話にならないでしょう。ですから、仏教徒は涅槃・解脱というゴールを目指して頑張るのです。だからこそ日常生活では失敗しません。日常生活のトラブルで悩んで苦しんだり、他人を嫉妬したり、足を引っ張られたり、そんな時間の無駄はしません。憂い、悲しみ、苦しみを、タンポポの綿毛のように、フッと吹き飛ばしてください。親が死んでしまっても、子どもが死んでしまっても、「あぁ、悲しい。では、また頑張ろうか」とすくに矢を抜いてほしいのです。

そうしたメッセージがこの経典に込められています。

後略

 

 

 「あぁ、悲しい。では、また、頑張ろうか」です。

 

アルボムッレ・スマナサーラ法話選1―業/苦/死