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おっさんは仏教徒

お釈迦様の教えは宗教ではありません、調べて、確かめて、実践する教えです

善いことをする理由 「自分が喜び人も喜ぶ」

業 善業 悪業 因果法則 輪廻 ダンマパダ 法句経より

善いこと、悪いことは仏教は、はっきりしています、あやふやなことは言いません。

 

普段の生活で、知らず知らずに悪いことをしたり、善いことをやろうとして、結果的に悪いことになったり、基準を知らないと、いつのまにか、まっすぐに進んでいないことになりかねません。

 

長老がわかりやすく説いています

 

「心に怒りの火をつけない」より引用

 

37 自分が喜び人も喜ぶ

 

後悔する羽目になる行為はしないほうがよい。

その報いを受けて涙を流して泣くだろう。 (ダンマパダ67)

 

後悔する羽目にならない行為は、進んで行ったほうがよい。

その報いを受けて幸せになるだろう。(ダンマパダ68)

 

まず「よいこと」について考えてみましょう。それは何事であれ「後悔しないで嬉しく喜んで、その報いを受ける」ことだ、とお釈迦様は教えています。自分には喜びであっても、他人に迷惑をかけるのは、よいことではありません。また他人に喜びであっても、自分が苦しむのも、よいことではありません。「よいこと」とは、「自分が喜び、他人も喜ぶ」行いです。そして、「あとで後悔しない」ことです。

「悪いこと」とは、「自分が苦しみ、他人も苦しむ」ことです。そして「あとで後悔するのです」だから行動を起こす前に、その行動によって、わずかでも後悔することになると思うならば、そういう行動はやめましょう。結果も良くて、あとで思い出したときにもよかったと思える行動をすることです。「よいこと」をすれば、「よい結果」が出ます。これには例外がありません。「そこそこの結果」しかないというのは、「そこそこのこと」しかしていないからです。

 

よい結果を得るために、よいことをしようとする人がいます。それは取引や投資のようなものです。よい結果が出なければ、そういう人は不満や怒りが出て心は汚れていきます。よいことをする目的は、よい結果を得るためではなく「心を浄めるため」なのです。

 

そのためには、スポーツ選手のように、毎日毎日、休まずに訓練しなければ身に付きません。ちょっとでも休むと後退してしまうからです。まず、「よいことをしよう」と心に決めることです。そうすると、よいことをする機会はどこにでもあることがわかります。電車に乗っていて、座っている自分の目の前にお年寄りがいたら、席を譲ることができます。でもわざとらしくすると、されたほうは気持ちがよくありません。なんの意識もせず、すっと立てば、気持ちよく座ってもらえるのです。なんのこともなく、普通に自然にさっとよいことができるようになればいいのです。

 

 

善いことを、自分の心を善くするきっかけにすればいいのですね。

現世利益の結果を求めて善いことをする方もいるかもしれませんが、そんなちっぽけなことより、自分の心に善いことをしなさい、ということです。

 

文庫本でダンマパダに触れることができます。

長老の詳しい解説付きです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

自分のやってしまったことを相続する。

業 善業 悪業 因果法則 輪廻 言葉

仏教では「業」とか「因縁」という言葉があり、善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果になり、その結果はやった人が享受する。

 

当たり前ですが、でも、最初にこの話を聞いたとき、「怖いなあ」と震えました。

 

自分のやってしまったことが、全部、自分のものになるのです。

 

自分のやった行為、すべてが善行為のわけありませんから・・。

 

若い頃、やってしまった「悪い」ことを思い出したり・・。

 

良かれと思ってやったことが、裏目に出て、人の気分を害したり、恨まれたり、長年の誤解のもとになったり、とかあります、自分がやってしまったことで、その結果は、すべて私がいただくことになります。

 

殺人なんてしたことないですが、心がひどい状態で行為に及ぶのですから、そのひどい心は死んでも終わらない・・。

次の生まれでも、その悪果は続いてしまう・・。

 

あー怖い、怖い、ほんとうに怖い

 

仏教の善悪の基準を学んで、ほんの少しでも悪いことは避けないとですね。

 

協会の下記HPより引用です。

 

仏教講義、7.業と因縁 (4)業。あなたの心が問題 (No37)

 

 

あなたの心が問題である
 では、業とは何でしょうか。「業」とは、過去に行為した、成したことの結果という意味です。ですから因縁の話でもあって、業の話と因縁の話はつながっているのです。

 悪いことをすれば悪い結果になる、良いことをすれば良い結果になる、というのが業の話です。幸福だなあと思ったとすると、それは業であり、不幸だなあと思ったら、それも業。

 たとえば食べものに欲があって、好き嫌いがあって、食べるものが片寄るとします。そうすると、ある時間がたてばからだが病気になる。
それが業の話です。それで、おいしいもの、好きなものはあるけれども、気をつけて考えて食事を摂るようにすると健康なからだになる。それも業の話です。

 因縁の話とかなりだぶりますから、因縁のとき話した同じ話を「業」の観点から話してみましょう。欲張るのは、貧困のもとだと言いました。「業」の観点からいうと、欲張った人は自分のことしか考えません。とにかく金を取ろうということだけを考えます。金を手に入れることだけです。そうすると人から取ろうとしますね。取ろうとすると、相手側は取られないようにと厳戒な態勢を取ってきて、取れなくなるのです。

 例を挙げましょう。私の国の首都コロンボではスリがたくさんいます。バスに乗ってもぎゅうぎゅう詰めでスリにとっては天国のように思えるかも知れません。しかし国の人は、スリがいることを知っているわけです。ですから私もコロンボではカバンのジッパーをしめて、注意深くカバンを持っていますから、まず取られることはありません。

 ですが逆に日本では、自分の荷物には全く無関心でジッパーもしめることもありません。なぜなら誰も持っていかないからです。

 相手のものを取ろうと欲張ると、相手は逃げる。しかし、相手の必要なものを自分が持っているからと、それをあげますと、向こうもこちらに必要なものを持っていますから差し上げますと、そんな風になるものなのです。それが商売でもあります。ですから商売をやる人は、もらうことばかり優先して考えると、あまり繁栄もしないものです。

 逆に、たとえば八百屋さんが、みんなに新鮮ないいものを食べて元気になってもらいたい、いいものを届けるのが自分の使命だと考えて働いていれば、少しづつかも知れませんが、時間はかかってもお客も増えてくるのです。おまけも値引きも必要ない。信用で、あの人から買いたいと思う人が増えるわけです。

 皆さま、毎日それを経験されているのではないでしょうか。欲張る人にはお金をあげたくならない、欲張らない人のことは面倒見てあげたくなる。

 ケチで、自分の持つもの、能力も財力も分けようとしない人、そういう人は、その瞬間にはわからないかも知れませんが、いずれは貧しくなって不幸になる、それが業の話です。そして生まれ変わっても、同じように貧しいところに生まれ変わります。心は似ているところに磁石のように引き寄せられるのです。

 仏教には餓鬼道という話があります。餓鬼道というのは、あれが欲しい、これが欲しい、食べものが欲しい、飲み物が欲しい、着るものが欲しい、そういう無いものを欲しがるエネルギーで生きる世界なのです。無い、無い、と泣かなければ生きていられないのがこの餓鬼道の世界です。欲しい、欲しいというエネルギーで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーが思う存分発揮できる餓鬼道に生まれ変わるといわれています。

 怒りも同じで、怒りだらけで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーがそのまま発揮できるような、戦う相手だけがいるような世界に生まれ変わるのです。業の話が因縁の話とわずかに違うところは、心は似たところに引き寄せられるということでしょう。周波数を探すかのように心は、似た心に引かれます。

 ですから、我々は、清らかな心を作ったほうがいいということです。簡単だからとすぐ怒りを持ったりすることがどれほど恐ろしい結果を生むかを知るべきです。

 人間というのは知慧がなく、因果法則を知りません。ですから、自分がどのくらい恐ろしいことをしているかということに気づいていません。もし知っていれば、今すぐ心をきれいにしようと頑張るはずだとお釈迦さまはおっしゃいます。例えて言えば、からだに火をつけられたとしても、火を消すより先に心清らかにすることに励むだろうというのです。頭の上で原子爆弾が爆発しても一度死ぬだけで、たいして怖いことはない。でもわずかに一度怒ったら、一回死んでも終らない。延々と業がついてくるのだと、業の恐ろしさをお釈迦さま話しておられます。(この項目終わり)
スマナサーラ師講義より構成しました)

 

 

善いことをすれば善い結果になります。

仏教では、やってはいけないことを決めているので、これに沿ってですね。

でも、へなちょこ仏教徒の私には、全部を守るのは、いまのところできてません。

悪いことは相続したくないので、下記の十悪は頭に入れておきたいです。

 

十種類の悪行為とは、

 

 一 殺生(せっしょう) 生き物を殺すこと。

 二 倫盗(ちゅうとう) 盗むこと。

 三 邪淫(じゃいん) 邪まな行為。

 四 妄語(もうご) 嘘をつくこと。

 五 悪口(あっく) 悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。

 六 両舌(りょうぜつ) 人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。

 七 綺語(きご) 意味のないことを話すこと。無駄話。おしゃべり。これは時間と頭の知識を無益に浪費します。

 八 貪欲(とんよく) 強い欲望(abhijjhâ)

 九 瞋恚(しんい) 強い怒り(vyâpâda ビャーパーダ)

 十 邪見(じゃけん) 見方が間違っていること(micchâditthi ミッチャーディッティ)

 

 この十種類のうち最も重い罪は、貪欲・瞋恚・邪見です。その中でも最も重いのは、邪見です。

 

理解できないかもしれませんが、仏教では、殺生よりも、妄語とか悪口とか 綺語のほうが罪が重いです、最高の重罪は邪見になります。

 

まずは、「自分の口」に注意ですね。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アリ一匹にも「どうかお元気で」と

生きとし生けるもの

仏教徒になって10年ほど、慈悲の冥想はほぼ毎日やってます。

 

心の変化に気づきました。

 

生き物がかわいく見えるようになりました。

 

殺生をしなくなりました。

 

釣りをやめました

 

蚊が入ってきても、外へ逃がしてあげる

 

ゴキブリを見つけたら、生きたまま捕獲して(かなり難しいです)「おまえのいるところじゃないよ」と外に逃がしてあげる

 

ハエも殺さない

 

ダンゴムシが可愛く見える

 

アリもかわいい

 

どの生き物も「生きたい」と思って生きているわけで、それを侵害する理由は無いなあ、理由のないことはできません。

 

ゴキブリを殺すのも、人間の勝手な都合です、ちゃんとした理由がないですね、逃がしてあげれば、それで済む話です。

 

「釣り」は娯楽ですね、娯楽のために、生き物の「生きたい」を侵害するわけにはいかないですね。

 

ブッダの教え 一日一話」より

 

ブッダは「自分を慈しむのなら、すべての生命を慈しみなさい」と説いています。

無条件、無制限で一切の生命を慈しもうとすることが、あらゆる問題の解決策なのです。

アリ一匹にも、「どうかお元気で」という気持ちがあれば、人はすぐに幸せになれます。

 

殺生は心に悪い行為です。

心に悪いことはできません。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

 

 

文庫本版です

 

 

 

 

 

 

「ツイている」とは「ツイていないこと」

日常生活 日めくりブッダ

とても幸せな環境は大事だと思いますが、あまりにも順風だと、ぬるま湯状態になって、真剣に自分のことを考えなくなるおそれがあります。

 

幸せな家族、気の合う仲間、働きやすい職場、どれもいいことですが、こういったときこそ、大事なことに気づかないことがあるかもしれません。

 

例えば、ずーっと幸せだった家族が、あるとき、不幸のどん底になる。

不幸の免疫が無いので、たぶん嘆き、悲しむかもしれません。

 

でも、不幸なときこそ、自分を見つめ直し、とても、大事なことに気づくかも。

 

 

「今日を充実した1日にするための日めくりブッダの教え」より

「ツイている」とは「ツイていないこと」

 

気の合う友達がいることや、気に入っている仕事があることは、表面的に見ると幸福です。しかしそこには落とし穴があります。なぜでしょうか?良い条件が揃うと、自分自身で注意することがなくなって怠けてしまうからです。成長する、努力する、挑戦する、自分に打ち勝つといったチャンスを失い、人格が進化できなくなってしまうのです。ツイていないことも必要です。ツイていないときは怠けてはいられませんし、半分寝ているような生き方はできません。

ツイていない状態であっても、自分の義務を果たせたならば、なんとすごいことでしょう。なんの躊躇もなく、自分自身を褒めることができます。

ツイていない状況に落ち着いて対応できたならば「今日は充実した一日でした」と言える人になるのです。

 

 

 

ヤバイときこそ、試されます。

 

私はスマホのアプリで毎日見てます。

日めくり ブッダの教え - カレンダーと目覚ましアラーム - Google Play の Android アプリ

みっちりと仏教の日 2017年4月9日

実践しました

本日ダンマサークルの日

朝から善友とともに、午前中みっちり自主冥想会。

慈悲の冥想、ヴィッパサナ―冥想

家でもやるけど、まとまった時間、善友と冥想するのは、すごく有り難い。

 

仏教を理解して、お互いダンマトークできて、お互い冥想する善友に巡り会えただけでも、稀な出来事です。

 

午後は、ちょっと遅れて行きましたが、スリランカの善友とともにウポーサタ

 

ウポーサタの際、白いたすきを肩から掛けるのですが、法輪のマーク入りのたすきをお坊様が用意してくれたとのこと、初めて見ました。

 

遅れて行ったのにも関わらず、私の昼食の心配をしてくれて「食べた?、食べて、食べなさい」と声をかけられて、美味しいスリランカカレーをいただきました、いつもありがとうございます。

 

みっちり「仏教の日」でした。

 

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「いま・ここ」の私こそ真理

冥想

普段、生活していると、目の前のことをやらずに、ほとんどの時間、他のことをなにかしら妄想してますね、過去のこと、今、やるべきことと関係ないこと、そして未来のこと。

 

心はどこでも飛んでいきます。

 

 

ヴィッパサナ―冥想をやると、自分の定まらない心を痛いほど実感できます。

あっという間に、心が妄想に染まります。

 

そのとき「あっ、冥想に失敗した!」とは思わず、「妄想、妄想」と観察します、妄想も観察の対象になります。

 

仏教では、思い出に心を汚さず、空想に心を乱すことなく、「いま・ここ」で集中することで確実に幸福を掴みます、と説きます。

詳しくは下記をご覧ください。

巻頭法話(10)「いまの瞬間」1995年12月

 

ヴィッパサナ―冥想を続けていくと、過去でもない、未来でもない、「いま・ここ」の自分を観ることができます、そのとき「あっ、今日は冥想がうまくいってる」なんて思わずに、この考えも「妄想、妄想」と観察します、観察すると消えていきます。

 

私の場合はヴィッパサナ―冥想で「いま・ここ」を体験できました。

正しく認識できる生き方の初歩の初歩の初歩かもしれません。

でも、大切にしていきたいです。

 

ブッダの教え 一日一話」より

 

「いま・ここ」の私こそ真理

「私」というのは何でしょう。それは、つねに「いま・ここの私」なのです。

昨日の自分はいないし、明日の自分はいないし、明日の自分はまだ現れていません。

「いまの自分」がここにいるわけだから、真理は常に「いま・ここ」にあるのです。

 

 

文章は短いですけど、毎日仏教に触れることができるいい本です。

 

 

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

 

 

 

 

 

お布施  私の場合

お布施 与えること

私は借り物だらけで生きてます、この身体も借り物でいずれは返さなくてはならないし、衣食住は地球があるおかげで、それにたずさわる皆さまのおかげで手に入れることができます。

 

生きることは、地球や、それに関わるみなさんのおかげで成り立っています。

 

「お金を払ってんだから、これは俺のものだ、お金は俺のものだ」という考えは、お金はあるんでしょうけど、貧しい感じがします。勝手に生きてると思っているんでしょうね。

 

いま、なぜ、自分がお金があるかを、理解しないとですね。

 

自分の仕事に対して、関わる人が価値があると思うから対価としてお金を払うわけです。

 

1人では、お金は手に入りません、衣食住も手に入りません。

 

生命は「持ちつ持たれつのネットワーク」 です。

 

「持ちつ持たれつ」を理解しない生き方は結果が悪そうなので、ごめんです。

 

 

ブッダの教え一日一話」より

 

生命としてのお返しが仕事

 

仕事というのは、ビジネスだけのことではありません。

それは、生命が必ずやらなくてはいけないことなのです。生まれてきたものには、やるべきこと、やらなくてはいけないことが、ついてまわります。

生命は自分だけでは生きていけません。必ず他の支えはあって生きていけるわけです。

だから、お返しをしなくてはいけない。

それこそが、仕事なのです。

仕事をしないということは、生命の法則に違反することになるのです。

 

違反したくないので、借り物だらけの、私の赤字人生ですが、そのお返しとして、せめて1か月に1回は献血してます。

 

献血は、必ず、誰か困っている人の役に立っているので、ちょっと痛いですが、役に立っていると思うと、痛みも平気です。

 

誇れるほどお金は無いので、自分の身体が役に立てば、と思います。

おかげさまで、回数はちょっと誇れます。

 

 

おーー、69歳まで献血できるんですね、まだまだ善行為ができそうです。

www.jrc.or.jp