おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

「希望のしくみ」

スマナサーラ長老の著書、テーラワーダ仏教に興味を持ったきっかけの書です。

スマナサーラ長老と養老先生の対談です。

2007年にこの書に初めて出会いました、仏教に興味を持ち、いろいろ調べ始めました。

 

この書でヴィッパサナ―冥想という言葉を初めて知りましたし、指導を受けたことはありませんでしたが、自己流でやってみたりしました。

 

抜粋

まず、ヴィッパサナ―冥想は、日本の座禅とはずいぶん違います。立つ、座る、、歩く、横になるという基本的な動作をしつつ、それを頭の中で実況中継するというものです。右足を上げるときには「右足、上げます、右足、上げます」と頭の中で生中継して、動作と一致させる。そして感覚の変化を感じ取る。ただこれだけです。この冥想法で、お釈迦様は悟りを開くに至ったそうです。

これでよろしいでしょうか?

スマナサーラ  ええけっこうですよ(笑)

ちょっと付け加えますと、正式な名前をVipassana Bhvana(ヴィッパサナ―バーワナー)といって、「細やかに明確に区別して観る実践」という意味があります。ですから実は「冥想」ではないんです。「観る」だけ。だから本当は冥想と呼ばないほうがいいんですが、いまさら変えるとかえって混乱するので、冥想のままにしています。で、何を観るかというと、これはもちろん「自分」です。普段何気なく「私」なんて言ってるけど、それはいったいなんなんだ、と細かく、細かく観察するんです。それをきちんと続けていくうちに「一切は無常である」という真理に気づき、悟りに近づきます。

中略

  そうすると、やはり冥想は難しいのでしょうか?

スマナサーラ  やることは、立つ、歩く、座る、横たわる、ですから、このうえもなく簡単ですよ。それが難しいですか?

ただそれでさえ、本気できちんとやろうとするとたいへんなんです。みんな普段はそれをごまかして、いいかげんに生きているからね。

冥想をやっていると「痒み」が出てきたりします。座って冥想していると、どこかが痒くなってくるんです。

しかし、ここでさっさと手をあげて掻いてはいけない。そこで痒みを観察する「痒み、痒み、痒み」と言いながらね。なんで実況するかというと、くだらないことを考えること阻止するためです。脳というのは、感覚において妄想するようにプログラムされているから、それを邪魔するんです。

「感覚において妄想する」とはどういうことですか?

スマナサーラ  脳が勝手に思考を膨らませるでしょう。「痒いなあ」とか「なんで痒いんだろう」とか、あるいは痒みを嫌がったりね。そういうことは、「痒み、痒み」と実況中継していると、できないんです。

痒みが出てくると、頭にいらだちが出て、手に「上げろ、上げろ」という信号がいったりするんです。「手を上げて掻きなさい」と脳が言う。でも、掻いてはいけないと言われているから耐えているでしょう(笑)?苛立ちも出てくる。落着きも消えてゆく。しかし、何もせず実況する本人が、そのプログラムを発見しているんです。「痒みって、なんなのか」と。

なるほど、そうか。

スマナサーラ  それで痒みは、掻かなくて消えるんですよ

えっ、掻かないのに消えるんですか?

スマナサーラ  別にそれは普通ですよ。

養老  だって「掻け」と命令するんだからね。それで脳の出力は終わりですよ。

でも掻けないわけですよね

スマナサーラ  掻かなくても、感覚がずっとあるわけがないんだから。

あ、痒みは時間が経つと消えてきちゃうんだ。

養老  そういうことなんですね

刺激に慣れてしまうので、ずっと同じ感覚を持つことができない?

養老  それもある それに、そもそも「痒い」というのは、明らかに脳から出ているんです。脳の状態ですから、脳の状態を変えてやればいい。

そうか、「観察」するという状態になるわけですね。

スマナサーラ  それで消えるんですよ。

養老  それは自分でできるんです。

スマナサーラ  それで本人が考えるわけです。「あれ?掻かなくても消えたんだ。私があれほど苦しんだのは、どうしてなんだろうか」とか「あんなに苛立ったのが嘘みたいだ」とかね。そうやって、次から次へと発見があるんですよ。それは全部小さななユニットなんですね。それをまとめて「人生」というだけのこと。

抜粋終わり

 

私のとっての名著です

 

 

希望のしくみ (宝島SUGOI文庫)

希望のしくみ (宝島SUGOI文庫)