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おっさんは仏教徒

お釈迦様の教えは宗教ではありません、調べて、確かめて、実践する教えです

怒りの原因となる自我

自我の固まりみたいな自分のことを棚にあげて、他人の自我が気になったりします、自我というか、「私は・・、私は・・、私に言わせると・・、私が思うに・・・」などなど。

一緒にいると疲れます、一緒にいて疲れる人(私も含めて)が自我の強い人なのかな、と思うことがあります。

それとは逆に、一緒にいても疲れない人がいます。

それは、テーラワーダ仏教のお坊様です、仏教では「自我は存在しない」と説いているので、修行で自我の錯覚を破ったりしているのでしょうか?

 

スリランカのお坊様と二人で買い物に行ったり、行楽地に、日本の寺社に行ったことがありますが、本当に疲れません、言葉は通じませんが、イライラせず、不思議とやさしい気持ちになります、お坊様の穏やかさに触れると、それにはなれなくても、せめてマネぐらいはしなくては、という気持ちになります。

 

「怒らない練習」より

抜粋

怒りの原因となる自我

 

「自我」とは、私たちが「私は〇〇だ」「私は〇〇したい」「私は〇〇したくない」「私は〇〇と思っている」などと考えるときの、「私は」にあたる意識のことです、この「私は」という、自分の肩書、自分のプライド、自分の思いに執着することが、怒りの大きな原因になっているというのです。

しかし、仏教ではこの「自我」は幻想であるといいます。「私が」というところのものである「自我」というのは、本当ではない、存在しない、ということです。それがどういうことなのかを、生命の起源にさかのぼりながら考えます。

 

自我が生まれるメカニズム

 

私たちには感覚があります。それは、「見る」「聞く」「味わう」「「嗅ぐ」「からだで感じる」「こころで感じる」という6つの機能です。ここで大切なことは、「こころで考える」は、その他の5つの、「見る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」「体で感じる」の後、それについてさらに「心で(余計)に考える」」ということです。

 

例えば、何かのの音がしました。私たちには耳に感覚があるので「聞こえた」になります。そして「聞こえたのはこういう話だった」と頭で認識します。頭で考えたり、認識したるするのは、感覚があった後です。

 

問題は、頭で認識するときには「私は」というものを加え、「私は聞きました」とすることです。見たり、聞いたり、味わったり、嗅いだり、感じたりする過程で、いつでも「私は聞きました」「私は見ました」ということにしてしまうのです。

 

しかし、この「私は」というものは、概念でしかありません。ここで「私」と考えているものは確固たるものではないのです。

 

例えば、きれいな花の香りを嗅いだら、その感覚に「私」を付けて「私は心地よい」となります。次に腐った生ゴミの香りを嗅いだら、その感覚に「私」を付けて「私は気持ち悪い」となります。香りによって「私」の内容が変わるのです。「私は心地よい」「私は気持ち悪い」とふだん気軽に考えてますが、その感覚は瞬間によって違います。まったく同じ感覚は一度も味わったことがないはずです。

 

つまり「私は」という言葉は、その瞬間その瞬間に生まれては消えていく不確かな感覚をまとめている概念にすぎないのです。

 

抜粋終わり

 

 

自我を理解できましたでしょうか?

いまだに自我については難しいです。

 

「自分」という固定したものは無い 、いつも錯覚を作っている、概念にすぎない。

 

自我を張っているときって、たぶん感情的で理性的ではないから、ここが気づくポイントかも。

 

横書きで、理科の教科書みたいな本です、しりあがり寿さんのイラストが楽しい

 

しりあがり寿さんのイラストは「へたうま」と呼ばれるものらしいですが、日めくりブッダのアプリで毎日見ると「じつに細かいところまで気づく、じつに絵のうまい人だ」という結論を得ました、味のある絵です。

 

 

怒らない練習

怒らない練習