おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

脳開発と「祭り」-仏教のコミュニティー活動が目指すもの

以前、ダンミッサラ長老に尋ねたことがありました。

 

仏教の目的は悟ることですが、冥想(バーワナー)も何もしないで、いつも現世利益の祭りばかり熱心で、ピリット(護法)ばかりしている、そんなことでいいのでしょうか?」

 

もう、この質問自体がいけないですね。

他の善友のやることが気になっているのです。

祭りに熱心でバーワナー(冥想等、修行)をまるでやらない善友が気になるのです。

私はダメな仏教徒です

 

 

ダンミッサラ長老の答え

「楽しくやればいいんじゃないですか?」

スリランカでも、冥想に熱心な僧や在家は、森の中に入ってバーワナーしてます、でも仏教の祭りのダーナ(お布施)、プージャ(お供え)、ピリット(護法)をみんなで楽しく行うことも、悟りを目指す行いになります」というお答えでした。

 

下記にスマナサーラ長老が、もっと詳しく「祭りと解脱の関係」についての法話です。

 

パティパダー2017年1月号 50ページ

特別寄稿 脳開発と「祭り」 スマナサーラ長老

 

中略

仏教の祭りと脳開発

 そこで仏教の世界を見てみると、昔から「祭り」が多いのです。カティナ法要も、とんでもなく派手なお祭りです。テーラワーダ仏教の国々では、今日の法要どころではない(本日の法話はゴータミー精舎のカティナ衣法要のため)大規模なお祭りになっています。私はそういう習慣を嫌だなという気持ちがあって、「祭りと解脱に何か関係があるんでしょうか?別に関係ないでしょう」と思ってきた面もあります。確かに祭りは解脱と直接関係ないのですが、仏教で祭りをすごく大事にすることにも、脳開発に欠かせない意味がちゃんとあるのです。

 

中略

解脱に必要なこころの基礎

仏教の世界では、そういう個人の壁はなくて、なんでもみんなでやる、みんなで参加するのです。たとえば、法事ではお坊さんにお布施をしてからみんなでご飯を食べるでしょう。食事を苦労していっぱい作ったり、持って来たりした人々が、手ぶらで参加してご飯をたらふく食べて帰った人を見たしても「あいつは何もしないで食べて帰って、けしからん」という考えは一切抱かないのです。「ああ、よかった、よかった」と喜ぶだけ。「何も持たずに来た人も、気持ちよく参加できてよかった」と喜んでしまうのです。「みんなに食事が行きわたってよかった」と。

 

そういう時、われわれの日常ではちょっと考えられない、こころの働きが起きているのです。ですから、じつはそういう仏教の祭りがないと、解脱に達するために必要なこころの基礎ができあがらないのです。「自我を出さないほうが気持ちいいし、楽しいのだ。自分が何かを得るよりは、みんなのために何かをやったほうがずっとリラックスできるのだ」ということを、仏教の祭りを通して体験してほしいのです。

 

祭りを通して無執着の世界を学ぶ

生命の脳というものは、これが幸福だとわかったら、もうそちらの世界へ進んでしまうのです。隠れて暗い顔で冥想ばかりするのが仏教の世界ではないのです。仏教では、どんどん家族を広げていきます。できるだけたくさんの生命と、みんな仲間だという関係を築く。そうやって自分の殻を破って、仲間、友達、家族という気持ちを大きく拡げて、みんなで何かひとつことを成し遂げる。そういう気持ちで参加すると、そこには何も混乱が無く、戦いもなく、ケンカもなく、会社の会議でやっているような感じで、自我を張ることもなく、すごく穏やかに物事が進んでしまうのです。その経験から、脳が何かを学んでいくのです。自我のない世界、無執着の世界の素晴らしさを学ぶのです。

 

ですから、西洋的な言葉で言えば、脳を開発するためにコミュニティー活動は必ずしなくてはいけないのです。仏教では昔からそれをやってきたのです、みなさんもカティナ衣法要として、かなり大きなコミュニティ活動をやったのです。

 

とてもよくわかりました、ありがとうございました。

 

仏教徒は、善友と勉強しても楽しい、冥想しても楽しい、お祭りも楽しい、かといって、一人でいても楽しい。

 

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