おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

自分の行動は自分の責任

自分の行動は自分の責任ですし、やってしまったことは自分の所有になります。

「業」ですね、「業」として所有することになります。

 

極端な例ですが「人を殺す」について

 

・精神的に問題がある方が人を殺す

・自分では殺さないが、部下に命じて人を殺す

無人飛行機を遠く離れたところで操作して人を殺す

・軍隊で隊長の命令で人を殺す

・相手に殺されそうになったので、相手を殺してしまう

 

仏教では、全部アウトです。全部やった人の責任になります。

全部、罪になります。

 

ブッダに智慧に学んで 子育てのプロになる」より引用

 

自分の行動は自分の責任

 

自分の行動は、すべて自分の責任です。犯罪者が精神鑑定にかけられて、責任能力の有無を調べられることがありませね。しかし仏教的にいえば、人間であろうが動物であろうが、必ず自分で判断してから行動しているのです。判断して行ったことは、自己責任になります。精神的に問題があっても「正しい判断能力がなかった」というのはおかしな話です。仮に相手を殺しているとしたら、「殺す」行為は自分の判断でやっています。自分で判断したという事実は、決してなかったことにはできません。

 

追い込まれて、自分の命がいよいよ危険になって相手を殺してしまうこともあり得ますね。その場合でも、やるかやらないかは自分で決めています。追い込まれて殺した場合など、事情によっては罪の重さは減ったりしますが、罪は罪です。

 

例えば、従軍した兵士は、実戦で隊長から「撃て」と命令されれば銃を撃ちまくります。その弾が誰かに当たって死ぬかもしれませんが、意図的に人を殺したかというと、ちょっと疑問が残ります。軍人だから命令に従わなくてはいけないのも事実です。だからといって、罪に問われないわけではありません。たとえ命令が間違っていたとしても、自分もその作戦に参加したのですから、やはり自分の行為の報いは受けます。そもそも軍人になったことからして自分の判断でしょう。中東でISのグループに入り、命令されて捕虜を処刑することになったら、それはISに志願した自分の責任です。殺人の罪は自分で背負うことになります。

 

仏教では、たとえ自分が殺されそうになっても相手を殺してはいけない、と教えます。殺さなかったら殺される、という場合は、たいてい相手を殺してしまうでしょう。「それも理論的には罪ですよ」と、仏教では強調します。正当防衛で相手を殺して寿命をまっとうしたとしても、たいしたことはありません。その時生き延びても、一年先が十年先かわかりませんが、どうせ死ぬののです。その場で殺された場合と、たいして違いはありません。生まれた私は、必ず老いて死ぬと決まっています。ほんのわずかにでも罪を犯す必要はありませんから、「じゃあ、どうぞ」と殺されてもかまわないのです。自分の人生がそれで縮まったとしても、短い人生を罪を犯さず立派に生きたことになります。

 

とにかく「自分の人生で罪を犯さない」と決めることです。この「決める」という働きだけは、いつも自分の心がやっています。自分の心が決めたのだから、その結果も受けなくてはいけなくなるのです。

 

 

自分のやった結果は自分のものになります。

このことに関して、曖昧さは無いです。 

仏教は緩いようでいて、いざとなったら厳しく言います。

 

それにしても、本当に「子育ての本」なのでしょうか?

表紙はかわいいのですが・・。

 

ブッダの智慧に学んで子育てのプロになる

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