おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

箭経 サッラスッタ 死の見かた(3)どこから来たの?、どこへ行くの?

「死」に関しては例外は無いですね。

 

生き物は逃れられないですね、逃れられないと分かっていても、自分だけは違うと、心のどこかで思っています。

私も、心の中で思っていると思います。

 

でも、誰であろうとも、こればっかりは例外は無いです。

578

子どもであれ大人であれ、愚者であれ賢者であれ、

みんな死の力に制服されている。

死はみんなの行きつくところ

 

 

続きます

 

579

死があの世のさらって行くのに、

父でも息子を救えない。親族でも親族を救えない。

 

580

泣きわめく親族の目の前で、さらわれていくのを見よ。

人は孤独で死に至る。屠場に牽かれる牛のように。

 

長老の解説

ここで死をできるだけ文学的に詠おうと力を込めているところなのです。死に対して忌み嫌う態度はまったくありません。逆に、死を恐れる人間をからかっているのです。あなたがたが何を思ったところで死のほうが圧倒的に偉いんだぞ、なんにも対抗できないんだぞ、と。

 

 厳しい表現ですが、事実です。

でも、この表現に動揺した私は、お釈迦様にからかわれています。

 

581

老いと死が常にこの世を攻撃する。

世のこの理を知る賢者には悲しみなし。

 

 生まれたあと、いつも攻撃してくるのは「老・病・死」ですね。

いずれ、「老・病」が勝ち続けて、死に至るわけです。

 

582

どこから来た者か、またどこへ逝ったか、それをあなたは知らない。

両辺も見えないその人のために、あなたは無意味に嘆く。

 

長老の解説

智慧のある人は死をこのように見るのです。

人がどこから生まれてきたのか我々は知りません。死んでどこへ行ってしまうのかも知りません。我々にはどちらも知る由はありません。ならばなぜ死を悲しむのでしょうか、そんな嘆きなど無意味ではないか、と。

自分のところへ突然、人が生まれてきたのです。どこから来たのかさっぱりわかりません。本人に聞いても知りません。それがいつかは死んでいってしまうのです。いったいどこへ行くかはわかりません。

自分の息子がどんな国から、どんな世界から生まれ変わってきたかと知っている人はいるでしょうか?誰もわかりません。どんな人でも、いったいどこからこの世に生まれてきたのかもわかりません。本人も知らないし、まわりの誰も知りません、あえて言えばお客さんのようなものでしょうか?いえ、お客さんとも言えないでしょう。突然、勝手に現れて、断りもなく出ていくのですから。しかし、それが人間の命というものなのです。

どこから生まれてきて、どこかへと死んでゆく。それなのに死を嘆き悲しむとは、どういうことか、ということなのです。

 

輪廻転生があるということで理解します。

前世の知らぬまま、私は生まれて、妻と出会い、妻は自分の前世は知りません、そして子供が生まれて、その子たちも自分の前世は知りません、でも勝手に出会ってしまいました、そして次の来世でどこに行くかわからんまま、私は死に、断りもなく去っていきます、次は家内も去り、子どもたちもいずれは去っていきます、お互い、どこへ行くかもわからずに・・。

 

虚無的な話ではありません。

 

このように、人は勝手にやってきて、勝手に去っていくのだから、今、悟るように努力しなさい、出会った人とは仲良くしなさい、今を大事にしなさい、ということですね。

 

ああー、仏教は深いですね。

 

でも、箭経は、まだ続きます。

 

アルボムッレ・スマナサーラ法話選1―業/苦/死