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おっさんは仏教徒

お釈迦様の教えは宗教ではありません、調べて、確かめて、実践する教えです

「怠け」を克服する(1)へびに噛まれたお坊さん 「別に。だから何?」

観察 気づき 無常

施本をいただきました。

山口県下松市 誓教寺様に新設された会館「仏教なんでもセンター」の落慶のお祝いに発行されました。

seikyoji.jimdo.com

 

藤本先生、誓教寺様、おめでとうございます。

施本ありがとうございます。

 

 

 

施本は『「怠け」を克服する』

平成29年1月29日に、兵庫県三田市のマーヤデーヴィー精舎で行われた説法が冊子になりました。

youtubeで説法を見ることができます。

mayadevi.hatenablog.com

 

 

B6判 38ページのかわいい本です

でも内容は非常に濃いです。

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内容です

 

「なんとなく知っているは」本当は「知っていない」

 

言葉には定義が必要

 

「頑張りなさい」は空っぽの言葉

 

「怠け」の定義

 

「怠けないこと」と「頑張ること」は同じ意味にあらず

 

時間を区切ることが秘訣

 

「怠け」と闘うことは「頑張る」ことにあらず

 

「生きることは苦である」という真理をわたしたちは知っている?

 

生きることは苦を変える(苦しい状態を変える)作業

 

「苦しみはイヤ」それが「怠け」

 

「怠け」の誘惑で地獄が出現する

 

「生きることはありがたい」とい論理なき論理

 

無知から無知へ

 

「怠け」と存在は不可分

 

ありのままに直面することが道

 

「苦」に直面すれば、選択なし、迷いなし

 

生きることはいつも矛盾

 

「生きていれば何かいいことが・・・」という推測

 

何を選んでも、あるのは「苦」

 

「苦」に直面すると智慧が現れる

 

蛇に噛まれたお坊さん

 

「苦」に直面すること=「怠け」の根治=解脱

 

 

 

 

 

気になるところを引用します 

「怠け」の定義

自分のやるべきことをやらずにサボることです。

 

「怠けないこと」と「頑張ること」は同じ意味ではありません。

 

怠けないようにするための簡単なトレーニングは、時間を区切ってやってみること、例えば子どもたちが、9時~10時までは遊ぶ時間だからゲームをやるぞ、と、自分で決めたならば、その時間にゲームをして遊べばいいのです。

 

時間にピリオドを入れる、人生をピリオド(期間)で切らなくていけない。

 

私たちの人生には、常にスケジュールがあって、プログラムがあって、この日はこんなことをやるということが決まっているのです。自分で決めたこと、親が決めたこと、会社の社長が決めたこと、・・・なんでもいいのですが、決められたこと、決まっていることがある。それをその時間の中でやるならば、怠けてはいないのです。

 

やっていて、なんだか難しくてやる気が出ない場合は、そこで頑張らなくてはいけないのです、そこで、頑張りの出番になります。」

 

 

「怠けない」とは、「今はこれをやる時間だからこれをやる」

「ああ、面倒くさいな」という気持ちが出てきたところで「ま、出来るところまで頑張ってみます」と頑張る。これで精神的ストレスなしに、「あー終わった」とやり遂げられます。

 

あのやり遂げた気持ちが幸福なのです。なにか仕事が終わったとき、そこに幸福があるのです。幸福というなにか変なものが別にあるのではなくて、「終わった」「やった」という充実感こそが、幸福の正体なのです。

 

生きることは苦です、苦がイヤでその状況をいろいろ変えようとする、それも「怠け」

だから必然的に「怠け」が出てきます、怠けも苦ですね。

 

仏道は、苦から逃げなさい、ではなく直面しなさい、という教えです、向き合ってみなさい、観察しなさい、ということです。

 

 

蛇に噛まれたお坊さん

 

経典には、蛇に噛まれて亡くなった長老の話が記録されています。

悟りに達していたあるお坊さんが、どこかの洞窟の中で生活していたのです。阿羅漢は自然破壊を一切しないので、家の中をピカピカ掃除して・・・ということはありません。自然の中にそのままいるので、誰かが住んでいることさえわからない。

「こちらに人間が住んでいるようだ」とわかるなら、その分、自然を破壊しているのです。もちろん、グループで住む場合には、それなりに環境を整理整頓しますが、ひとりで住む場合にはそれもしません。自分が住んでいるところに行く道はない。歩く道を作ったりすることも、厳密には自然破壊ですから。行きたければ獣道をそのまま自分も歩く。枝一本さえも折りません。

そのお坊さんが住んでいる洞窟の中にはいろいろな動物もいたのですが、その中にある特別な蛇がいました。その蛇には牙ではなく、身体に毒を持っているのです。その蛇は獲物を捕るとき、ただ跳んで身体をぶつけるだけ。たとえば、その蛇が跳んで蛙の身体に触れたら、蛙さんはそれだけで死んでしまうのです。まず身体が動かなくなって、細胞が分解されて血管が破裂して死に至る。蛇はその前に食べてしまうのです。

おなかの中でボカンと破裂して溶けてしまいますから、蛇にとっては楽ですね。

現代にもそういう蛇がいるかどうか調べたことはありませんが、経典に出てくる蛇のエピソードです。この蛇がちょこちょこ動いたところで、お坊さんの身体の上に落ちてしまったのです。

蛇はお坊さんを食べるわけではないので、たまたま落ちて触れてしまっただけです。

お坊さんはその瞬間「あ、あの蛇か。これで自分の命は終わりです」とわかったのです。

そこでお坊さんはすぐに、近くにいた何人かの比丘たちを呼んだのです。すさまじい痛みを感じていたはずです。それでも声が出せたので、比丘たちを呼んで「今寝ているこの状態で、私をすぐに外に出してください」とおっしゃったのです。

比丘たちは状況がよく呑み込めないまま、でも長老のおっしゃることなので、急いで外に出したのです。

なぜ、外へ運ばせたかというと、血管がパチパチと破裂するからです。身体にはいっぱいの血液がありますから、その場所がひどく汚れてしまうのですね。自分がいた洞窟で他のお坊さんも生活できるようにと、急いで外に運ばせたのです。

それから、みんなの目の前で亡くなられたのです。本人には悩みも悲しみもなにもなかったのです。「ああ、そういうことか」で終わり。 

 

 

ただ、どんな出来事にも直面するだけです。

 

そこには、悩みはないし、怒りもないし、欲もないし、執着もないし、自我もないし、怠けもないし。

 

いろんなことを教えてくれるエピソードです。

 

仏教徒は、直面して、ありのまま観て、「別に。だから何?」です。