おっさんは仏教徒

お釈迦様の教えは宗教ではありません、調べて、確かめて、実践する教えです

自分のやってしまったことを相続する。

仏教では「業」とか「因縁」という言葉があり、善いことをすれば善い結果が、悪いことをすれば悪い結果になり、その結果はやった人が享受する。

 

当たり前ですが、でも、最初にこの話を聞いたとき、「怖いなあ」と震えました。

 

自分のやってしまったことが、全部、自分のものになるのです。

 

自分のやった行為、すべてが善行為のわけありませんから・・。

 

若い頃、やってしまった「悪い」ことを思い出したり・・。

 

良かれと思ってやったことが、裏目に出て、人の気分を害したり、恨まれたり、長年の誤解のもとになったり、とかあります、自分がやってしまったことで、その結果は、すべて私がいただくことになります。

 

殺人なんてしたことないですが、心がひどい状態で行為に及ぶのですから、そのひどい心は死んでも終わらない・・。

次の生まれでも、その悪果は続いてしまう・・。

 

あー怖い、怖い、ほんとうに怖い

 

仏教の善悪の基準を学んで、ほんの少しでも悪いことは避けないとですね。

 

協会の下記HPより引用です。

 

仏教講義、7.業と因縁 (4)業。あなたの心が問題 (No37)

 

 

あなたの心が問題である
 では、業とは何でしょうか。「業」とは、過去に行為した、成したことの結果という意味です。ですから因縁の話でもあって、業の話と因縁の話はつながっているのです。

 悪いことをすれば悪い結果になる、良いことをすれば良い結果になる、というのが業の話です。幸福だなあと思ったとすると、それは業であり、不幸だなあと思ったら、それも業。

 たとえば食べものに欲があって、好き嫌いがあって、食べるものが片寄るとします。そうすると、ある時間がたてばからだが病気になる。
それが業の話です。それで、おいしいもの、好きなものはあるけれども、気をつけて考えて食事を摂るようにすると健康なからだになる。それも業の話です。

 因縁の話とかなりだぶりますから、因縁のとき話した同じ話を「業」の観点から話してみましょう。欲張るのは、貧困のもとだと言いました。「業」の観点からいうと、欲張った人は自分のことしか考えません。とにかく金を取ろうということだけを考えます。金を手に入れることだけです。そうすると人から取ろうとしますね。取ろうとすると、相手側は取られないようにと厳戒な態勢を取ってきて、取れなくなるのです。

 例を挙げましょう。私の国の首都コロンボではスリがたくさんいます。バスに乗ってもぎゅうぎゅう詰めでスリにとっては天国のように思えるかも知れません。しかし国の人は、スリがいることを知っているわけです。ですから私もコロンボではカバンのジッパーをしめて、注意深くカバンを持っていますから、まず取られることはありません。

 ですが逆に日本では、自分の荷物には全く無関心でジッパーもしめることもありません。なぜなら誰も持っていかないからです。

 相手のものを取ろうと欲張ると、相手は逃げる。しかし、相手の必要なものを自分が持っているからと、それをあげますと、向こうもこちらに必要なものを持っていますから差し上げますと、そんな風になるものなのです。それが商売でもあります。ですから商売をやる人は、もらうことばかり優先して考えると、あまり繁栄もしないものです。

 逆に、たとえば八百屋さんが、みんなに新鮮ないいものを食べて元気になってもらいたい、いいものを届けるのが自分の使命だと考えて働いていれば、少しづつかも知れませんが、時間はかかってもお客も増えてくるのです。おまけも値引きも必要ない。信用で、あの人から買いたいと思う人が増えるわけです。

 皆さま、毎日それを経験されているのではないでしょうか。欲張る人にはお金をあげたくならない、欲張らない人のことは面倒見てあげたくなる。

 ケチで、自分の持つもの、能力も財力も分けようとしない人、そういう人は、その瞬間にはわからないかも知れませんが、いずれは貧しくなって不幸になる、それが業の話です。そして生まれ変わっても、同じように貧しいところに生まれ変わります。心は似ているところに磁石のように引き寄せられるのです。

 仏教には餓鬼道という話があります。餓鬼道というのは、あれが欲しい、これが欲しい、食べものが欲しい、飲み物が欲しい、着るものが欲しい、そういう無いものを欲しがるエネルギーで生きる世界なのです。無い、無い、と泣かなければ生きていられないのがこの餓鬼道の世界です。欲しい、欲しいというエネルギーで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーが思う存分発揮できる餓鬼道に生まれ変わるといわれています。

 怒りも同じで、怒りだらけで生きていた人が死ぬと、そのエネルギーがそのまま発揮できるような、戦う相手だけがいるような世界に生まれ変わるのです。業の話が因縁の話とわずかに違うところは、心は似たところに引き寄せられるということでしょう。周波数を探すかのように心は、似た心に引かれます。

 ですから、我々は、清らかな心を作ったほうがいいということです。簡単だからとすぐ怒りを持ったりすることがどれほど恐ろしい結果を生むかを知るべきです。

 人間というのは知慧がなく、因果法則を知りません。ですから、自分がどのくらい恐ろしいことをしているかということに気づいていません。もし知っていれば、今すぐ心をきれいにしようと頑張るはずだとお釈迦さまはおっしゃいます。例えて言えば、からだに火をつけられたとしても、火を消すより先に心清らかにすることに励むだろうというのです。頭の上で原子爆弾が爆発しても一度死ぬだけで、たいして怖いことはない。でもわずかに一度怒ったら、一回死んでも終らない。延々と業がついてくるのだと、業の恐ろしさをお釈迦さま話しておられます。(この項目終わり)
スマナサーラ師講義より構成しました)

 

 

善いことをすれば善い結果になります。

仏教では、やってはいけないことを決めているので、これに沿ってですね。

でも、へなちょこ仏教徒の私には、全部を守るのは、いまのところできてません。

悪いことは相続したくないので、下記の十悪は頭に入れておきたいです。

 

十種類の悪行為とは、

 

 一 殺生(せっしょう) 生き物を殺すこと。

 二 倫盗(ちゅうとう) 盗むこと。

 三 邪淫(じゃいん) 邪まな行為。

 四 妄語(もうご) 嘘をつくこと。

 五 悪口(あっく) 悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。

 六 両舌(りょうぜつ) 人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。

 七 綺語(きご) 意味のないことを話すこと。無駄話。おしゃべり。これは時間と頭の知識を無益に浪費します。

 八 貪欲(とんよく) 強い欲望(abhijjhâ)

 九 瞋恚(しんい) 強い怒り(vyâpâda ビャーパーダ)

 十 邪見(じゃけん) 見方が間違っていること(micchâditthi ミッチャーディッティ)

 

 この十種類のうち最も重い罪は、貪欲・瞋恚・邪見です。その中でも最も重いのは、邪見です。

 

理解できないかもしれませんが、仏教では、殺生よりも、妄語とか悪口とか 綺語のほうが罪が重いです、最高の重罪は邪見になります。

 

まずは、「自分の口」に注意ですね。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。