おっさんの仏教メモ

テーラワーダ仏教をいろいろ考えるおっさんのメモ

アビダンマ復習 痴根心2

貪瞋痴の「痴」になります。

 

場所は不善心12、その中の貪根心8、瞋根心2、痴根心2になります。

 

痴根心は二つ

 

捨倶疑相応

捨倶掉挙相応

 

言葉を分解します

捨倶 平静な感覚

捨倶心の起こる原因 好中所縁 捨倶結生心 思慮深い性格

疑 因果業法や三宝などに対して心が迷い決定しないこと、真理にたいする疑い

掉挙 心が浮き騒いで落ち着かないこと

相応 字のとおり相応します。

 

テキストより引用します

捨倶疑相応のものが一つ、捨倶掉挙相応のものが一つ、以上、これら二つとも極愚心という」極愚心とは、愚痴の上にも愚痴、即ち、極めて愚痴な心をいう。

ここでは疑と掉挙による2種の相応がある、また受による分類は捨倶のみである、また、この極愚心には行があるともないとも言えないから、有行、無行の区別はない。

 

「疑、掉挙が捨倶心と相応する理由」

この極愚心には痴因のみが相応していて、貪・瞋という他の因は相応しない。このようにただひとつ痴だけが相応しているから、この痴は貪根心の時のように、貪にも支配されないし、瞋根心の時のように瞋にも支配されないから、自己の痴の性質を十分発揮するのである。即ち、その痴と相応する痴根心は、好所縁に直面してもその味をはっきり受け取ることができないから喜と相応することはない、また不好所縁に直面しても、その味をはっきり受け取ることができないから、憂と相応することもない。このように好所縁、不好所縁に対して殆ど苦楽を感受しないので、捨受のみと相応するのである。

あるいは、また次のように解釈できる。即ち、この極悪心は、所縁を確定しない疑及び心が散乱する掉挙と相応するから、所縁に対する味を明瞭に感受することができない、例えば、走りながら食べる食物は、座って食べるときのように味がはっきりしない。このように好所縁、不好所縁に対する二つの味をはっきり受け取ることができないから捨受のみと相応するのである。

 

「掉挙相応心と名付けられる理由」

掉挙は一切の不善心と相応しているのに、なぜ最後の心だけ掉挙相応と名付けられたのかと言えば、それは掉挙が一切の不善心と相応していても、最後の心以外では、掉挙は劣勢であるが、最後の不善心では、それが優勢に働いているからである。

 

当たり前のことですね。

真理に疑いを持つこと、落ち着かない状態であること、これを極愚痴と言ってます。

愚痴はおしゃべりの状態ではなく、愚かで対象を認識できない状態をいいます。

極愚痴ですので、極めて、これ以下が無いくらいダメってことです。

 

所縁がわからないので、なんていうか、やはり痴の状態です。

物事を正しく理解できない、ということです。

 

 

掉挙は阿羅漢にならないと取り除けない、とのことです、かなりしつこく残っている心です。私は掉挙なんて、まっさきに取り除ける心だと思ったのですが、甘くはないです。普段は目立たないですが、心のスキを突いて優勢に出てくるでしょう。

 

貪によって餓鬼界に、痴によって畜生界に、瞋によって地獄に生まれ変わる原因になるといわれています。

 

どれもイヤです。

 

不善心をするくらいなら何もしないほうがいいし、反対のことをすればいいのかな。

 

痴根心の復習、終わり。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

 

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